4刷

『よくわかるメディアスタディーズ』(ミネルヴァ書房、2009)。おかげさまで、4...

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「教養としての政治哲学」の付記

 寄川条路さんが編集された『新しい社会をひらく』(角川学芸出版、教養論集2巻の1...

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まともとまともでないについて

 2,3ヶ月前のこと、わたしの敬愛する哲学者・批評家が「原君のような優秀な編集者...

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受講生へ:レポート執筆についての注意

先ほどの記事で立教大学・吉岡知哉総長のスピーチを同大学のサイトから転載しました。...

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大学の使命の普遍性、社会制度とは別の場で別のことばで徹底して考えること

タブレットからのバタバタ投稿です。
立教大学総長・吉岡知哉さんの学位授与式スピーチは、大学とは何かを明確に打ち出しています。先日ご紹介した茨城大学学長の記事と同様に、リベラルアーツとは何かを強く主張されています。大学やリベラルアーツの機能や役割は時代とともにかわります。宗教改革の時代、近代科学の時代、グローバル金融市場の時代と、語られるべき内容が変遷するのは、あたりまえのことです。それでも、大学やリベラルアーツの第一義的な役割は普遍性をもちます。それは支配的制度とは別の言説でものごとを思考することです。英語などのツール、就職機会などは、付随的なものです。大学の目的は「考える」習慣をもつことです。英語など語学教育はそのためのツールであって目的ではありません。本来ならば、就職活動の下駄でもないはずです。でも雇用企業は、中学校・短大・文系専門学校の卒業生の枠を削減している現状があります。大学が信念をもつにはとても苛酷な時代です。
でもだからといって、受験生が漫然と就職に有利そうだと社会科学系・工科系の学部を選ぶならば、入り口の段階から、彼/彼女たちは、4年間の大学という貴重な思考の場を逸しているのです。学びたいことを、じっくりと考えたいことを、興味関心を深めたいことを、支援してくれる学部とは違う道を選んでいるのですから。
先日、ある全国紙で英語教育についてのアンケート調査が記事になりました。ここ十年で、「希望する職業に就くためには英語が必要」と考えている中高生は、30ポイント以上伸びて70%以上、ところが、「将来英語を使う仕事に就きたい」という生徒はほとんど変わらず30%程度です。グローバル化と雇用企業のTOEIC重視など、社会制度の変容が生徒たちにオプセッションのように英語学習を植えつけている、いやいや生徒たちは学習しているのです。
こうした不合理な状況をどうしたらよいのか。わたしにも即効薬のうおうな妙案があるわけではありません。卒業生たちは、社会保障もままならぬ、増税により厳しさを増す社会で食っていかなければならないのですから。そしていまの日本社会で仕事をするのは、企業労働が一般形態です。
ただし、政治がまず明確に国家の将来のビジョンを打ち出さなければならない。景気回復、成長路線、財政規律、野田政権の方向ですが、そんなことはこの先不可能であることはほんとうは分かっている。南米もアフリカも同じことを目指していて、実際に多くの国が経済成長しています。富裕国クラブと呼ばれたG8や先進諸国クラブ内でパイの奪い合いが始まっています。
政治が実現可能な将来のビジョンを呈示する。またそれにふさわしい文部教育政策を実施する。その後には企業など主たる雇用主と大学など就職適齢期の送り手との間で協力体制のための話し合いも必要となるでしょう。そのときでも忘れてならないのは、大学とは支配的社会制度とは別のあり方でものごとを「考える」場であるという、大学の目的であり使命です。これを忘れては、本末転倒となります。

吉岡先生は、日本のルソー思想(政治)研究を代表する方ですが、わたしが大学院生だった頃、駒場でも授業をしていました。学部後期課程向けの演習にずいぶんな数の院生が集まっていました。いまや日本の論壇のトップを走る國分功一郎さんも出席していました。トクヴィルの『アンシアンレジームとフランス革命』の原書がテクストでした。わたしの担当回はフリードリッヒ啓蒙君主のあたりのことで、«peuple»を「人民」と訳したわたしに政治学科の院生が食ってかかり、要するに「国民」と訳すべきという話だったようですが、時代的にもそんなおかしな話はないでしょう、でもたしかに「人民」はバイアスのかかった語なので「民衆」の方がよかった、國分さんも加勢してのそんな応酬が続く間、吉岡先生はそれが学問というように楽しそうにやりとりを眺めて、議論が不毛になってきた頃に公平な行司役を果たす、そんな方でした。
それからのう15年も経って、ある研究会でお目にかかりました。高級感あるスーツに身を包まれて、なにかオーラのようなものさえ感じたので戸惑ったのですが、お酒の席で聞けば早朝をやっていらっしゃるというお花でした。

以下にご紹介する学位授与式スピーチを読み、やはり変わっておらてないと安心しました。

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[執筆予定]伊藤守『テレビは原発事故をどのように伝えたのか』、平凡社新書

テレビ報道研究の第一人者、伊藤守先生による、 政治や司法の迷走 世論形成に圧倒的...

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それぞれの選択、岐路に立つ大学


 朝一番、いまでは年に一回となったがんの検診。おかげさまで7年が過ぎました。前にも書いたかもしれませんが、がんは治った、良医を紹介してくださったT大学のI先生、I先生に情報をくださったご同僚のO先生、駒込病院のM先生とK先生、そして励ましてくれた恩師、先輩、同僚、友人、学生、みなさんのおかげです。一般的に5年経過で再発の危険がない状態、今度がんになったら新しく罹患したということです。
 帰り道に、日本で生活時のわが家にしてはめずらしくフレンチレストランで、妻の誕生祝い第二弾にして打ち止め。住宅街のなかにあるこのレストランは、そう金額がはるところではないのに、自動車で門に入る前から執事さんのようなギャルソンが迎えてくれ、テーブルからガラス越しに眺める庭の木々にはウグイスなどが見られる楽しいお店でした。

 昼食をすませて、さてきょうはやるべきことをすこしでもと思いながら帰宅。車中で、日本のマーケットを支配する欧米語の氾濫について議論。いままでもう何十回としているのですが。欧米への憧れなのかコンプレックスなのか、消費財、ふつうの商品だけでなく、店名からマンション名まで不動産も、自動車名も、カタカナ語の嵐。欧米風ネームは、文房具となり学校にはいり、家電としてさらにテレビやラジオの情報で遠隔からも家庭にはいり、都市を侵食し、気づいたら文化そのものとなっています。
 なぜ気になるのか。1.かっこ悪いと思うから。2.欧米に憧れるならば欧米を真似た所で、相手の土俵で勝負するのだから、永遠に敵わないから。3.間違った表記が平気で街に溢れるのは、語学教師としてとても気になってしかたないから。

 1.のかっこ悪いと思うぼくは少数派の偏屈者なのかな。敗戦後まもない頃なら、古臭い日本風のネーミングに比べてカタカナ語はキラキラしていたに違いない。でもこれほどカタカナ主流になったのならば、マーケティングのイロハはいかにマーケティング技術が複雑になっても<差異―卓越化>にあるのだから、右に倣えから抜け出す方が効果があるはず。抜け出す方法が、和製英語から英米イングリッシュに、フランス語に、ドイツ語に、スペイン語にと進んでも意味がない。いまこそ日本ならではの「イキ(粋)」がいなせでシブイはず。同乗者は、じゃあ「いるか・あぱあと」だよねという、昭和レトロ。ダメ。日本文化じゃない。「旅館・鯉」。ダメだ、わたしにはネーミングセンスがないだけではなく、生まれた頃から漢籍・古語の香りのする日本語や日本文化が虐げられてきたので、「和」に戻れといっても(「和」でこそ先をゆく)、そもそも語彙のちからが圧倒的に欠落している。でも、いいたいことは、たまには古い各時代の日本語の物語や日記、歌などを読み、忘れられていたことばを見つけましょう、きっとかっこよいということです。このことは、先日国文卒の学生とも家の喫煙場で議論していた。最近の小説の描写力、批評の文体が……、商品支配から文化そのものへ、根は深い。よく江戸までの文語を標準語(口語基本の文法)にと試行錯誤していた明治期の作家の文章が問題にされる。夏目漱石は別格にしても、わたしには明治時代の作家の文章は美しく感じられる。もちろん個人差があり、福澤諭吉は東アジア的な素養の上に西洋の概念を実にうまく表現したけれども、西周の「百学連環」は少なくとも現代のわたしには読むことがとても苦しい。実は大正期のほうが日本語が崩れていたのではないか。白樺派は戦後もよい日本語の見本のような平明なひらかな中心の文体を生んだけれども、エミール・ゾラの翻訳をした武林無想庵は、カタカナ語をとりいれて、好きな作家ではあるけれども、美しい文章には思えない。白樺派もそうだが、好きな作家といったときに、わたしはたいていその作家の人格を実存的にひいきしている、思想を評価していることが大正時代、昭和初期の場合、多い。国文の学生は納得ゆかなかったようで、わたしの偏ったものの見方であるかもしれない。さて、問題はカタカナ語神話だ。
 2.文化帝国主義という観念が一時期流行ったけれども、製造業もだめ、金融もうまくいかない、技術力でも敗北、最後に残るの商品は文化しかない。フランスでもますますまんがを中心に、現代日本のカルチャーがもてはやされている。これが進むと日本のカルチャーに関心あるひとは、もっと知るために日本語を学ぼう、自分の好きなカルチャーの根になにがあるのか、歴史に探ろうと思うかもしれない。そのとき発見するのがクールジャパンといえるのかどうか。和、東アジア文化、そうしたものを彼/彼女に発見してもらえるのかはなはだこころもとない。日本語を母語とするわたしすら、なにももっていないのだから。
3.これはもう……。「クリプト*1・マンション」や「メゾン・デ*2・ラ・フルール(/ル*3・フルール・アパートメント*4」など。待ちを歩けばすぐに見つかる。

*1「教会地下墳墓」の意。ホーンテッド・マンションに住みたいかどうかまあ趣味の問題。*2複数形の冠詞がすでに含まれている前置詞、そのあとにさらに定冠詞「ラ」とくる。*3フルールはフラワーの意味だけどれども、フランス語では女性名詞なので冠詞は「ル」でなく「ラ」。*4前半フランス語、後半英語。

 素人のわたしがいうまでもなく、商品名は商品のブランド価値を大きく左右する。ブランド価値は商品の価値の一部である。高く売ろうと思えば、ブランド価値を上げるのが通常の考え方のようである。マンションを売るオーナー。一戸数千万円もするたいへんな取引である。商品名に拘らないのは煩悩がないからなのか。およそオーナーや経営者など、資産とも無縁のわたしでも、たぶん売る立場になったら気にする。分からないことばは使わない。それでもマーケティング上どうしてもつけたければ外国語辞書や文法書をみて慎重に検討する。そうしても分からなければ、識者に意見を求める。何億円という商売をするのだから、識者のアドヴァイスに相応の支払いをしてもなんでもない。ところが、買う方の消費者-労働者もまた、そのような欠陥商品にたいへんな金額を支払う、まあこうしたことを気にしないのがジャパン流クールなのかもしれない。
 名前が金を生むことは、中国のビジネスパーソンはよく分かっている。市場経済でグローバル競争にはいる戸口でそのことをまず心得たのかもしれない。心得がなければ「さぬきうどん」や「iPad」を商標登録したりしないだろう。

 ああ、またとても長い前書き。しかもタブレットで書いている。きょうも結局、書斎に行けなかったのだ(資料やファイルがないので、すでに建設しておいた「執筆予定」のブログ記事を書けない……)。

 本題の大学。大学院重点化は、ほぼ東大の一人がちである。(ポス)ドク倍増計画は、主たる雇用主である企業、産業の側で、せめて修士課程、無理を言えば博士課程を修了した学生を受け入れてくれるようにならなければ、文科の場合、研究者を目指すしかない。公募といっても「はずれ」のリスク回避のため、一般に優秀とされる人材を輩出してきた大学院が有利になる。大学院に進学する学生は、わたしのようなひねくれでもない限り、就職(公募)に有利な大学院を選ぶ。定員数が大幅に増えているのだから、かつてほど困難なことではない。
 こうした状況のなか、すべての大学が軒並み大学院重点化するわけにはいかない(それは差別-卓越化の原理にも反する)。そうだとしても、すでに学部の段階で、入学適齢人口の層の縮小、それに見合わない全国800の大学数とのアンバランスのなか、強烈なしのぎ争いが十年来つづいている。
 この苦境は、逆に考えれば各大学のビッグチャンスでもある。戦後の教育制度改革以来、ひとたび固まった大学の序列はなかなか崩せない。それを切り崩せるかもしれないのだ。王者、横綱たちこそ、守勢で、どうにかいまのランクを保たなければとなる。世界大学ランキングのことではない。あれはアメリカから生まれたのだから、つまりアングロサクソンの価値観を基準とするものなのだから、英米の大学が勝手あたりまえと、現代の数少ない文体で魅了できる作家でもある松浦寿輝さんが退官記念講演で仰っていたがその通りである。大学の伝統は一朝一夕にできあがるものではない。早稲田大学は、留学生受け入れ数で一番であるそうだが、これも早くからの先駆けての取り組みが実を結んでのことだろう。若い頃、ルーマニア政府のシンポジウムに呼ばれて、ブカレスト大学に行った。数日に渡るシンポジウムのなか、暇なのであちらこちらの小教室のワークショップを覗いていた。古い石造りの校舎の一階、木目のインテリアで統一された美しいセミナー室、ガラスのついた書棚がひとつ、数冊の本がたいせつそうに飾られていた。わたしが、「あっ」と思ったのは、そこに早稲田大学の豪華装丁の大学史が、各国語の書物と並べて置かれているのをみたときだった。ブカレストで早稲田に出逢うとは予期していなかった。

 どのような特色ある学部をつくるのか。これまでの流れは、「実学」、それもスピーディーに、就職に有利に、そして「グローバル」な人材育成、強力な就職活動バックアップ体制、懇切丁寧な「使える」外国語教育など、旧帝国大学や一部の国立大、最上位の私立大をのぞけば、人気上位(中間以上)の大学は、どうしたわけか、メディアが間接的に伝える「需要」を意識してのことだろうが(それが真実だとは限らない)、一斉に右に倣えの状態だった。地方の人気があまりない大学は、福祉や看護、ITなど、より専門職指向とはなるがやはり就職に向けての準備への改革が主流だった。
 でも、ほんとうに抜け出るためには、他校と同じようなネーミングやコンセプトであってはだめである。結局、序列は崩れない。ちょっとした変化は、キャンパスの立地の利便化(東洋大学、立正大学など)、就職に強く清潔で先端的なキャンパス(明治大学、法政大学などのブランディング戦略)により生じた。スクールカラーが様変わりしたところもある。

 わたし自身は、わたしなりの私見があり、長いこと、教養教育大学というコンセプトを考えてきた。これは主に勤務させてもらっている大学の伝統による。大学化には遅れたが、慶応大学のつぎに古い私立学校である勤務校の母体は、そもそもが英語によるリベラルアーツ教育と、キリスト教の精神による人格形成への扶助、また戦後新制大学として「自由」、「お洒落」(現代流デカダン)、「サブカル」などのイメージを学外世間では蓄積してきた。わたしが考えていた教養教育大学は、単なるリベラルアーツではなく、伝統のほかに地の利がきて、それは田畑耕作や自然林での生態観察などを重んじるキャンパスの里山化という、いまこの先進社会だからこそ新しくそれなりには珍しいものだった。海外から寄せ場、高層ビルディングまでの「フィールド」での「体験」を重んじる教育で、それは幅広い世界を公平な目で見ることのできる、いってみれば島崎藤村や賀川豊彦の精神を甦らせることのできる学生育成を目標とするものであった。ユナイテッドアローズやビームスなどのセレクトショップのトップ、渋谷陽一さんなど日本のポピュラー音楽シーン、映画界、時間が経つにつれて自然にできた際だった向き不向きが生まれる。それらをいかす?なぜ悪い?そのために必要なツールとして、各国語・日本語、NPOならば法的・組織論的な科目、食物の流通や製作に関わるならば貿易の仕組みから食の歴史と比較学も必要となるだろう。だけれどもツールに優先されるべきは、「理念」である。いずれの専門教育の道を歩むにせよ、当校ならではといえる理念の教育は柱となる。理念は教職員にたたき込まれるようなものではない。われわれ教職員が提示したものを学生がたたき、教育と議論をつづけながら、いつまでも固定することなく動的であるべきだが、それでも一定の理念をまずはわたしたちが提示しなければならない。当校の場合、いわゆるミッション校であるのだから、もちろんキリスト教をベースにしたものとなるだろう。それをどのように現代社会の暮らしにアップデートするかが問題となる。
 学生の就職はとてもたいせつな問題である。そうはいっても、人気企業の総合職として好まれる人材を、全国800の大学が一斉に育てようと努力しても、一部の人気上位校が圧倒的に有利である現実は覆せいな。そこで差異を生まなければならない。
 伝統はとてもたいせつである。わたしが感心させられたのは東洋大学の試みだった。ただキャンパスを一元化するのではなく、東洋大学ならではの財産にほかならない伝統を生かす改革が進められていたのである。国際哲学研究センターが創設されたと、お知らせをいただいたときには、とても励まされ、心の中でエールを送った。井上円了(東洋哲学者)の建学(哲学館)の精神に、前に進むために、回帰したのである。わたしたちの親の世代では、東洋大学といえば、印度哲学、東洋の宗教が学べる大学だった。私立大学のなかで印哲や中国・日本の哲学・思想・宗教が学べる総合大学はきわめて少ない。いまとなっては、サンスクリット語の教育をすることすら少数なのではないだろうか。宇波彰先生にお招きいただいたおかげで、ずいぶんと年をとってからだが中野の哲学堂でセミナーを行ったときに、井上の名と同時にやはり東洋大学の伝統を観ぜずにはいられなかった。国際哲学研究センターは、復古主義ではない。現代を含めた各時代の西洋哲学、社会科学・自然科学系の思想、そこに東洋哲学のセクションが加わることが、新しくなるために原点に戻るということの意味である。
 教養大学構想について、これはわたしは立場的に学内ではとても主張しにくいことであった。諸々の事情はあるが、一番大きいのは自分自身が教養部(教養教育センター、旧一般教育部)に所属する教員であることだった。各学部の同僚から、教養部のエゴだと受け止められかねない。ひどければ、体制転覆のため、勢力拡大のためと、受け止められるような大学もあるかもしれない。各学部が危機の中、余裕がなくなっていればなおさらのことである。ただ、教養大学は、大学院進学は限られた他校に行くことを前提としている米国では珍しいことではないし、フランスのグランド・ゼコールの代表的校のひとつである高等師範学校は学生が各専門を限定なく選択できる、文科/理科のジェネラルなある意味での教養大学ともいえる。
 世界大学ランキングを、日本の学習者が参照するときは、先述の偏った基準に加えて、ハーヴァード大学、米国の名門理工科大学、英国のオックスブリッジなど、上位常連校が桁外れの学費がかかるということを知っておいたほうがよいかもしれない。年間、1000万円の授業料を払えるだろうか。米国人、米国への留学生たちだって払えない。そこでハーヴァード大学など名門校への進学者は、銀行のローンを使う。卒業後は、ウォールストリートなど高給を得られる職場に就く。卒業時には借金額が相当となっているので、自由に職業を選べる身ではなくなっているのである。
 またまとまりのない記事を書いてしまった。そもそもは、本日の『日本経済新聞』の連載4回目「秋入学、こう考える」での、茨城大学長・池田幸雄氏の主張に感銘といっていいほどの喜びを得て、それを紹介しようと思ってのことであった。上で里山キャンパスなどあれこれ突飛なことをいったが、わたしが10年間心のなかで抱いてきた基本的な信念は池田幸雄学長の意見と100%同じである。以下の「本文(続き)」に引用するので、ぜひお読みいただきたい。わたしには至極まっとうな正論に思われた。でも多くの方がそう考えるのか自信はない。つい先日、東京教育大学が筑波大学となって茨城県に移転・建学されたときに、茨城大学はどのように考えたのかなどと家でお喋りしていた矢先の記事だった。
 ちなみに該当記事は教育欄、キャリアアップ欄の通信制大学特集では、孫正義氏のサイバー大学(株式会社日本サイバー教育研究所、授業料1単位2万1千円)や大前研一氏が学長を務めるビジネス・ブレークスクール大学(株式会社ビジネス・ブレークスルー、授業料年間70万円)の紹介もある。

 

 

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東京倶楽部

夕方から外出。自分がいかにI先生にお世話になってきたかをファストフード店で深く再認識。院生時代から、さしで何度もお酒をご一緒させていただいた。いつもわたしの身の上話。病気になったときだけではない。何度も救われている。一生樽に入れられても仕方ない(関係者以外意味不明ですみません)などと調子の好いことを言っておきながら、ものすごい御無沙汰の失礼をしている。ご苦労している分だけ他人の痛みが分かると結論。
さてそれから向かったのは。妻の誕生日記念祝い、第一弾で、久しぶりにジャズバーへ。最後はロンドンだったので何年ぶりかも忘れました。きょうのステージはJAZZではなくて、ポップスと現代音楽の融合、sevenspirit(vo.)さんと   鼓緒太(p.)さん。
よいユニット。大澤誉志幸のヒット曲「そして僕は途方に暮れる」などやはり見事な詩と曲とパフォーマンスの一体感を、あゝやはり名曲だと想い出させてくれた。ヴォーカリストに求められるショウマンシップをサービス精神で発揮するSEVENさんのマイクで初恋の話があったが、まさに中2のときのヒットソング。いまではどうしているのか、幸せに暮らしているのか、たまには想い出してくださいと。もう想い出すこともあまりないが、好きな相手と交際するということの意味も分からず、どうしたらよいのか、なにを話したらよいのかさえ分からなかった。「このまま原がどこまでいってしまうのか、怖い、ついていけなくなるかも」と洋紙にそれだけ書かれ折りたためられた手紙を友人を介して受け取ったことをいま書きながら想い出した。ある程度、おとなになってから、とうじのことを腹を割って話したいと思うこともあった。結局その後も成長せずに失敗を重ね、ときには酷くひとを傷つけた。いまではふだん無意識となっているそうした失敗の経験があるから、きっと、わたしにしてはだけれども、妻に優しく接し、妻をたいせつに想うことも、小さな限界内であっても、できるのだ。SEVENさんの語りで、赤い糸を信じているかとまあべたなネタもあった。手はあげなかったけれども、そういう運命で結ばれたひととずっといたい、死ぬときも一緒にいたいというストレートな気もち云々のトークに心のなかで頷いていた。
あー前置きばかりまた長くなった!
今夜の演目、金子みすゞの詩をベースにしたオリジナル曲と、これもオリジナルの源氏物語にインスパイアされたという連作・組曲のすえつむはなの章が際立ってよかった。

ここからは、さしでがましいこと。SEVENSPIRITさんは、珍しいファルセットヴォイスを天分のものとしておもちです。その美しさを引き立てるために、発声法をがらりと変えるなどということはあるのでしょうかね。ヴォリュームが必要なときでも張り裂けるように力をいれることなく、腹式呼吸さえ鍛えれば、軽く力まずゆったりと、ファルセットにマッチしたSEVENSPIRITさんならではの優しさを表現する歌唱法になるのでは、さらに豊かなパフォーマンスのなるのでは、などと思いながら聴いていました。
もちろんこれは素人の勝手な感想で、すでに銀色プレゼンツとしてスタイルもキャリアも確立しつつあるSEVENSPIRITさんが真に受けるような話ではありません。事実、家内はいまの歌唱でなんら問題ない、よかったといっておりました。

鼓緒太さんは、演奏も作曲の能力もちょっと予想外で驚くほど高いです。すでに完成されたように見え、実はまだまだポテンシャリティが高く残って居そうです。

明日の朝早いので、日和って1STステージで失礼させてもらいました。

休日の夜の楽しいひとときでした。

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四聖諦、上座部の解釈(メモ途中)

「わたしは苦労して(真理を)体験した。いまはそれを語る気持ちは起きない。 怒りと...

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吉本隆明氏逝去、訃報に接して

吉本隆明さんがお亡くなりになった。正直、格別の感情はない。87歳?大往生だと思う...

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«(執筆予定)政治と思想 再読

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