実践——方法と方法論、研究と人生の歩き方

「わたしが探究を始めるために重視する手段は、どこまで進められるか見定めることだけです。つまり、まずは探究の途について、歩き始めること。(研究方法を学んでから、研究を始めるのでは、順序が逆です。まず歩いて、行き詰ったら限界を知るのだから、そのときに方法論を反省すればよいのです。方法論が完璧なら真理にたどり着くはずだといっても、歩き始める時が来なければ意味がありません)。研究方法をめぐる探究から得た知識〔認識〕が現実にいかに啓発的だとしても、得られた研究方法がわれわれの思考を肥大させるにしても、思考のメカニズムについてのいかなる事前の分析も、ただわたしたちにそう遠くまで進むことができないと不可能性を示すことしかできません。それというのも、自分たちのもつ思考というものの解明が目的であるのだから、思索のただなかで肥沃になるはずのものを、事前知識で当の思考が肥大する前に研究すべきであったというはめになるからです」。

 (ベルクソン「意識と生命」講演より)

2020年1月 1日 (水)

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                      「頭がいいというのはIQの問題じゃなくて、倫理の問題だと、ぼくは思っているんですね」             (柄谷行人)  ※「現代日本の言説空間」、蓮實重彦との対談より 柄谷行人 蓮實重彦 全対談    ぼくもそう思います。つくづく...

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2016年11月17日 (木)

昭和雑話 すいとん

昔なつかしの「すいとん」をつくってみました。いったい何十年ぶりか。敗戦後の貧しい日本人、うどんも肉もない。ぶつ切りネギと小麦粉だんごだけの汁、でもうまくてあたたまったのだと思います。 出来上がりはこんな感じになります。右 側のどんぶりに入っているのが、うどん粉のかたまり。ほんとは具などありませんでしたが。 最近、塩がうまいなあと感じます。出汁と塩、あとは醤油などの最小限の調味料。出汁の工夫しだいで...

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2016年8月23日 (火)

ネルヴァル、詠う感性に渡世は……

Nerval, "poète du plus limpide espoir et de la plus vive douleur". (Yves Bonnefoy, «l'acte et le lieu de la poésie»)

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2016年8月22日 (月)

教養の道リターンズ™Blogサイト一時移設のお知らせ

  一時的に一部の記事を、別サイトに連載し始めました。  以下の通りです。  仮設サイト、教養の道リターンズ™。   https://tranquillitasanimi.wordpress.com/  本格的な新設サイトは、遠く先となりそうです。  ココログでの当ブログサイトは継続いたします。  新設サイトまで、WordPress形式に馴染むためにも、上記サイトで一部の連載記事などを投稿してゆき...

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2016年3月28日 (月)

【テレビドラマ(連ドラ)】[今期(2016年1月期)ベスト]寸評

【テレビドラマ(連ドラ)】[今期(2016年1月期)ベスト]寸評 ? 【テレビドラマ(連ドラ)】[今期(2016年1月期)ベスト]寸評   原閑     『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』 (60点、CX-FNN)  【評価ポイント】  東京の生きづらさがよく描けている点。生きて人生を築き、日々を生活するために、東京で暮らさざるを得ない現代日本、各地から集まる若者の口から飛び交う<方言...

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2016年3月22日 (火)

【ミニコラム】共産 意味 共産主義とは?

「共産 意味 共産主義とは?」

                        原 閑

 ※2016年2月 7日執筆

               2016年3月22日改稿

 

 参院選を前に各党の公認候補状況を確認しようと、Google検索をしていたときのことです。自民党の三原じゅん子氏やSPEED今井氏を確認し、共産党の番となりました。「共産」と入力した途端、いつもの検索候補がたくさん出てきました。

 「共産 意味」、「共産とは」など。この<推測検索ワード>なるものは、眺めているとなかなか興味深いものです。ひとびとがなにに関心を寄せているのか、<いま>がわたしにも分かったような気になります。

 最初、「共産 意味」をみんな知りたがっているのか、知らないのか意味を、共産主義を!とぎょっとしたものの、時代は変わり、世代も交代、学校でも習わないのでしょうから、あたりまえのこと。知りたいと思っているなんて素晴らしい。ひそかなる向学心ですよ。<おとな>たちが教えなければなりません。

 「共産」とは、文字通り、<共同で生産する>ことです。

 いまでも、自動車メーカーや家電メーカーでも、共同で、自動車やテレビ、冷蔵庫を部品や作業工程から設計、調達、営業まで手分けして汗水流して組み立て、販売しているではないか、と言われるかもしれません。

 部品を造る町工場から、各パーツを組み立てる直系の工場、それらを売る販売店まで、たくさんのひとが働いています。でも、それは「分業」であって、「共同の生産」ではありません。

 近代以降の経済では、<誰/何が>、<誰/何を使って>、<誰/何を生産する>のか? このことをしっかりと踏まえなければなりません。

 生産する主体<誰/何>は、<資本>。生産されるものは<富(カネ)>です。<資本><富(利益)>生産します。

 自動車やテレビは、<富(利益)>を生み出す道具です。自動車やテレビの部品を造ったり、組み立てたり、セールスしている人びとも同じです。そのための設備や流通、インフラも同様。窮極の目的は、いつでも<富(利益/カネ)>を生み出すことです。

 <資本>とは、まず(1)<カネ>であり、(2)利益を生み出す商品=道具を製作するための手段、ヒトや機械や設備類です。(2)の機械や設備は、難しい用語では(狭い意味での)「生産手段」ともいいます。ヒトは、「労働力」の中核であり、資本主義では「労働力商品」として社会にあります。資本主義では万物が商品ですから。

 各部門、分野、ツリー状の下請けや元請けの段階で働いている人びとも、そこに含まれます。

 身体になぞられるなら、売れる商品の企画、販促、流通方法などは頭脳で、カネは心臓、心臓から血液により送られるエネルギーがあり、身体の各細胞が働きます。個々の細胞は、ヒト=労働力です。ヒトがかなりの数集まり、手であったり、目であったり、肝臓であったりと、器官になり、身体全体のなかでの期待される働きと効果、ある役割に特化されたグループとなります。

 製造過程が「手」であるならば、手のなかの一細胞である自分は、筋肉繊維であったり、筋肉繊維を引っ張って手首や指を動かす集団のなかの一となります。

 この身体、たとえば身体=企業、資源産業、製造業、流通業、小売りなどさまざまな会社や組織がありますけれども、それぞれの企業がヒト身体だとします。

 このヒト身体の集まりから、国内、世界の、分業による経済体制があり、市場で買ったり売ったり動いています。

 カネ(1)がなければ、(2)生産手段を用意できません。雇用もできないし、雇用した者に給与を支払うこともできません。

 商品を売ると富(カネ)が入ります。設備や給与の精算をして、なおあまりが出ます。利益(利潤)です。生まれた利益(カネ)は、A)資本に追加され、資本がますます大きくなる、B)一部は税金として国など行政に収められる、C)上記「精算」の手数料。

 いや、雇用されている者は、道具ではない。機械と同じ生産手段ではないと資本主義のあり方を批判したのが、19世紀ドイツ国籍の哲学者カール・マルクスです。

 給与で雇われている者は、自らを自動車やテレビの商品と同じように、身心と時間を労働力商品として売っている。これだけが、被雇用者の唯一の財産(資本・資源)であり、オフィスや工場で働いている時間だけではなくて、家でも街でも日々、<働ける状態>の身心を維持(再生産)するため、食べて、寝て、家から生活用品、食品までを揃えて、唯一の資源となる自分自身、労働力商品を養っている。それなのに、「給与」として戻ってくるのは、オフィスや工場で働いている「時間」により計算された分だけだと、近代の市場経済システムを批判しました。

 利益と(全従業員)給与の総体との間に、税金の上納だけではなくて、(i)雪だるま式で増えてゆく「資本」の増加に回る分(企業の資本金、内部留保)、(ii)事業(企業)を始めた個人資産家や株主、投資家たちが利益から手にする富(カネ)の差がある。富が差し引かれているので、被雇用者はいつまでも貧乏なんだというわけです。

 だから、<生産手段>(設備や労働力、販売経路)を自分たちで<共同で所有>すればよい。<資本>を働く者たち自身で共同所有すればよい。<共同で生産>して、相応の富の分を<自分たちの間で分配し合う>。これが共産主義です。

 19世紀という文脈もあり、理想主義的にすぎると思う人もいるでしょう。

 共産主義や共産党は、暴れて秩序を乱す、おっかなくてあぶない輩だと思う人もいるでしょう。

 実際に、マルクスが唱えた<生産手段を自分たち働く者たち自身で所有する>、<生まれた富を自分たちで分け合う>という「共産主義」は、歴史上まだ実現されたことがありません。

 <生産手段を自分たちで所有する>には、まだ早い、われらエリートがひとまずは預かる。「前衛党」といわれましたが、マルクス主義を目指した国々は、ことごとく、この中途段階の社会主義で終わり、独裁国家となり、秘密警察による取り締まりが行われ……と残念ながらなってしまいました。ソ連がそうだし、共産党独裁資本主義国家となる以前の中国もそうでした。

 フィデル・カストロとチェ・ゲバラが切り拓き、信念を貫き、腐敗に陥らないリーダーをもったキューバもそうです。

 革命を初めてリーダーが、世の中の不公正を糺すために立ち上がる高邁な人物であったとしても、準備の整った状態で、どのように真に「自分たち全国民労働者が共同で生産し、富を生んで分かち合う」体制に移行するか、それが困難で、窮所であったわけです。

 ずる賢い奴、うずまく欲望が、まだ力を握り、力で支配しようとしている。だから、まだ自分が牽引しなければならない。こうして、いつまでたっても、革命時のリーダーが、降りることができない。民衆全体に意思決定や統治の権能を譲り、共産主義段階に移行することができない。

 そうこうしているうちに、偉大なる革命のリーダーが没すれば、もうとうてい共産主義にはならないだろうという、独裁国家、ひとりの強権的な支配者や、そこに群がる社会主義国家における公務員という特権階級などに成り果ててしまい、前衛であったものが、独裁になってしまう。この失敗が繰り返されてきたというわけです。

 偉大な先導者を失うと、各国は迷走します。ホー・チ・ミン以降のヴェトナムなど、ましな方に思われます。

 しかし、共産主義は見果てぬ夢に終わったと斬り捨てることはできないでしょう。いま、グローバルに市場が拡大し、もはや先進国vs.後進国(発展途上国)という図式も失われ、利益を独占する術を各国が失っています。儲ける者(国、企業、人)がいれば、必ず損をする者がいる。植民地時代が分かりやすいですが、安く買って、高く売る、これが経済の鉄則です。市場がグローバルに統一されれば、もうそれは賭場と変わりません。誰が貧乏くじを引くのか、各国が血眼になり、なりふり構わずに利益を争っています。資本主義の断末魔は、かつての先進諸国各国内の社会にも響き渡っています。

 「働けど、働けど……」。日本も「もはや戦後ではない」から「また戦前かよ」と一気に時代が反時計回りした感があります。

 こうしたなか、資本主義・市場経済を保管する改良や、代替となる経済システムを考え出すように迫られています。

 その際に、マルクスが分析した資本主義の問題点は、いつでも考えるヒントとなるはずです。

 

—・———・———・—

 ちなみに、「共産主義」は、英語では《communism》コミュニズム、《common/commun》共同・共用、《community》共同体といった意味が込められています。共同で生産し、共同で富を分配するからです。

 二〇世紀、1960年代末から「共同体」という言葉は、哲学・思想上のキータームとなります。早くは、戦後、英国など第二次世界大戦戦勝国によりイスラエル国家がパレスチナの地に建国されてすぐに、一九世紀末から高まったシオニズム運動(離散したユダヤの民の統一国家建国運動)の流れで発祥する近代版キブツを国家行政の下に制度化しました。60年代には、日本からも多くの志ある若者が、とりわけスターリン時代のソ連に幻滅した若者たちが、代替となる理想郷であるかのようにイスラエルに渡り、キブツに滞在しました。100人程度から1,000人近くまでの、共同生活、農業や畜産の共同経営と共同労働。そのスローガンは、平等、自主、所有の否定、相互責任と連帯、生産も消費も共同による……。

 当時、キブツを経験した日本の若者は、すぐにイスラエル国家がパレスチナの民に行ってきて、行っていること、また中東イスラム国家たちとの対立における大義の正当性などに疑問を抱き、離脱します。

 離脱したなかでも、ただ失望に終わるのではなく、パレスチナ支援や中東国家、イスラム教徒のよき理解者となるべく人生を捧げたルポライターや写真家も傑出した仕事を残しています。

 こうした政治の文脈を抜きにしても、20世紀の哲学・思想のなかに「共同体の思想」は、強く刻印されました。いまでも、英米の政治哲学で、コミュニタリアニズム(共同体主義、富の再分配と社会保障の重視)は一大潮流です。日本でも人気のサンデル教授は、コミュニタリアンの代表的人物です。簡単にいえば、「民営化」反対。

 日本でも、いまもつづいている歴史認識問題へとつづくものとして、「主体論争」がありました。1990年代半ば、論壇がまだ輝いていた時代。直接の源流だけでも、左翼運動の日本における敗北が明らかとなった70年代、そして80年代、吉本隆明のようにコムデ・ギャルソンを着ること、消費文化のなかで、消費社会から逃れられない以上、どのようにマシな批評を行うか。政治の可能性、少なくとも共産主義など幻想であったと一蹴して、時代に即した、日本国家を背景として、立派な社会を目指すか。これは理屈よりも実感といった理論の否定の流れともなりますけれども、そうした流れと、いや、新しい時代の資本主義の代替となるモデルを構築することが知識人の使命だといった立場と対立します。もともと吉本隆明は、60年代も、安保には反対であっても、共産主義を信じていたようには思われませんけれども。どちらにせよ、『共同幻想論』など偉大な仕事を残した大知識人に変わりありません。

 このことは、大本を辿れば戦後の丸山真男どころか明治時代の福澤諭吉にまで行きそうな、<日本人としてデモクラシー国家を実現するには、個が先か、国家—集団が先か>と。

 ここでは、またわたしからは「主体論争」を詳しく書くことはできませんけれども、関心のある方は、ググってみたりしてください。わたしは検索したことありませんけれども、運よく大澤聡などの名前がヒットした方はラッキーです。間違いないでしょう。

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 さて、共産主義とポスト市場経済の話です。

 20歳代の若者を中心に、助け合いながら、自分が造りたいものをつくり、売る。オーガニック・カフェ、農家のごく一部、観光地や商店街の青年団の一部など、すでに市場のお仕着せから逃げて、工夫し、苦労はしても心を満足させながら生きているひとびとも出てきているようです。彼女、彼らは、おそらくマルクス主義も共産主義も、自分とは縁がないものと思っていることでしょう。意識したことすらないかもしれません。

   * * *

 最後に、《共産主義》について理解したいならば、マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が、薄くて安くて読みやすそうだと買わないことです。あの書は、パンフレット(マニフェスト、檄文)なので、読んでもマルクスの考えた《共産主義》とはなにか?の答えは得られません。

 マルクスが《共産主義》の本質を書いた、経済と哲学からの理論の書は『資本論』です。日本でも各種翻訳が出ています。

 文庫本でも複数あります。ただ、戦後政治の党派性を表すかのように、「中立」な訳というのはなかなか。よく誤解されることですけれども、廣松渉はたしかに政治運動にコミットしていましたけれども、学術の仕事となると、きわめて客観的な信頼できるものしか残していません。マルエン関係の文庫版でいえば、岩波文庫に入っている『ドイツ・イデオロギー』だけが傑出して光り輝いていることが好例です。

 また、どれも刊行がやや古いので、訳文が読みにくいという欠点があります。

 授業をもっていた頃ならば、学生には筑摩書房版、<マルクス・コレクション>第四巻、第五巻の、『資本論』第一巻上下巻を薦めていたと思います。読みやすさ第一なら、これです。

 難点をひとつ言えば、第一巻しかない。『資本論』は、マルクスの死後エンゲルスが編纂した第三巻も含めて全三巻です。本格的に研究しようとでも思わない限り、第三巻を読むひとは稀でしょうけれども、第二巻を読みたいというひとはいそうです。

 それならば、第二巻からは新日本出版(日本共産党系)から出ている新書版に切り替えるという方法もあります。

 下記も、個人的な意見ですけれども、文章は分かるけれども、マルクスの理屈が分からないというひとへのアドバイス。

 漫画で読破や、ラッコでも分かる……、チョー訳、などのダイジェスト系は、論外です。

 読みやすく、また正確に理解することの一助となる参考書を上げておきます。

 ・内田義彦『資本論の世界』(岩波新書青版)、1966年

 解説書ということなら、これが一番だと思います。

 また、

 ・宇野弘蔵『資本論の経済学』(岩波新書青版)、1967年

 上のものは、しっかりとした経済理論という観点から、

 お金にたまたま余裕があり、現代世界との関連から学びたいというひとには、

 ・デイヴィッド・ハーヴェイ『<資本論>入門』(森田成也、中村好孝訳)、作品社、2011

 いま、訳者のお名前の漢字を確認するためにインターネットで調べたら、ハーヴェイの本が驚くほど多く数年で翻訳刊行されていることに驚きました。ハーヴェイの本は、『資本論』第二巻・第三巻の入門だけでなく、いずれも面白いと思われます。

以上

 

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ごあいさつ 2016.3.22 Tuesday

 みなさん、ごぶさたしています。お元気ですか。

 以前から当Blogには問題がありました。表示幅です。スマホやタブレットでご覧下さっている方は違和感をもたないと思いますが、パソコンのディスプレイ表示だと、かなり読みづらいです。

 幅だけ可変にしたり拡げればいいやと2,3年前に思ったものの、ココログのテンプレートカスタマイズが容易でなくなりました(CSSの追加だけでは変更できない)。まあ、気づいたのは2,3年前なのですから、どんだけやることのろまなんだよという話ですね。

 そこで、デザインやスタイルシートをお手製でと思いつつ、途中作業できなかったりで、年が明けてからまったく更新できていませんでした。投稿すべきもののメモはあるのに、まずはスタイルシートとか、融通のきかない人間ですね、まったく。

 きょうは、東京は快晴です。春が近づく。こんな社会や気候の不穏な空気のなかでも、やはり春が来る、春よ来い、はるさんも来ていいよと明るい気分になりますね。新入生なんてわくわくでしょうね。どんな友人がクラスで待っているのだろう?とか、部活は野球か将棋か、テニスか音楽か、など。大学生なら、科目履修はどうしよう、外国語は?ああ、あこがれのひとり生活!というひとも、新社会人にはいるでしょうね。あ、うらやましい……。

 みなさん、午後も明るい気もちで過ごしましょう。

 で、とりあえず、ひとつくらい記事を更新することにしました。

 

 もう1,2ヶ月前に、とあるWebzineに投稿したものです。クローズドなので、ここで掲載しても、まったく無価値ではないでしょう。

 以下、余談の余談。

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2016年1月11日 (月)

そうか、そうか

こんな教師なのに、慕ってくれる学生もいました。 共通点は、 ◎無私無欲。欲がない。狡猾さの欠如。判官びいき。 ●他人への思い遣り、配慮ができる。 ふと気づいたのは、 ◎➡︎ 就いていてもなんのメリットもない教師。 ●➡︎心配でしかたないので、気になる教師。 これは自虐ではなく、むしろ自慢として書いています。 卒業後も交流があったり、そっと目立たずに動向を気にしてくれている、 この場合、ほぼどんぴし...

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2015年12月31日 (木)

 ごぶさたしております。  『立憲デモクラシーがあなたを護っている、それはあたりまえでも永遠でもない』のドラフト版のご案内、PDF ファイル公開のお知らせ

 ごぶさたしております。  『立憲デモクラシーがあなたを護っている、それはあたりまえでも

永遠でもない』のドラフト版、PDF を公開いたします。 

 Blog 記事での 連載も、要所を抜粋しながらつづけます。  
 3つの PDF ファイルをアップロードします。
2.後註
 これら3つをダウンロードして、全部開いていただくと、多少読み進めやすいかと思います。
ともかく、まだまだ不十分です。
 
Acrobat Reader 用に、註釈やメモの機能が使えるものを作成しようとしたのです
が、失敗しました。落ち着いたら、作成し直します。
 
おひとりでも、おふたりでも、ああ、こんなもん読んでおもろいな、と思って下されば幸いです。
 より平易に書いたものをこれから整えるとはいえ、本稿も、できるだけ基礎知識なしに簡単にさらっと読めるようにと努力しました(まだまだ改善、スキルアップが必要ですが)。
  安保法制が気になるけれども、ニュースやネットで使われる用語や歴史背景が「意味分かんない」という方こそぜひお読みくださいませ。
 また、学校はレポートの季節ですね。
 多少、参考になれば幸いです。目次で、「法治国家」や「三権分立」、「自然権」などあたりをつけて、辞書代わりにでも使ってもらえれば。(わたしの友人で教師をしているひとたちはまじめなひとばかりで、ネット検索で必ずコピペ判定しているので、要注意)。
 電子書籍版(EPUB)は、年明けになります。
 ごく簡単に、この PDF の位置づけを 説明します。
 『安保法制から考えるデモクラシー――日本と世界のいま』という原稿のショートバージョン
をさらに前編と後編に二分割したのが、このブックレットです。
 今回、ご紹介するのが、
前編(『立憲デモクラシーがあなたを護っている、それはあたりまえでも永遠でもない』)。  
後編は、『デモクラシーと日本のいま――「テロとの戦争」、〈おもてなし安全保障〉、デモクラシーの初声*』(仮題)
です。
 
いずれも「未定稿」です。そのため、シリーズの 0⃣ としています。
 それでは、みなさまよいお年をお迎え下さいませ。
 わたしはこれから年賀状を書いて、大掃除をします!  原 閑
*μαιευτική ソクラテス問答法・弁証法、産婆術

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2015年12月21日 (月)

※【安保法制・憲法論】(ブログ版連載公開中)について

 記事の重複、リンクの機能不全、フォントなどのレイアウト、多くが不完全です。       せめて読みやすいように、レイアウトだけ、なるべく早く直します。重複記事も削除します。   すみません。

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« 【安保法制・憲法論⓪】-第四回 「1近代デモクラシーの要を確認する」その2―― 「自然権」、生まれたときから誰もがもっている権利(2)

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【銘】

  • 如行雲流水 初無定質 但常行於所當 行 常止於不可不止(蘇軾)

  • 山川草木     ——草木国土悉皆成仏



  •     人生無根蔕

         飄如陌上塵

         分散随風転

         此已非常身 

                   陶淵明「雑詩」

  • 犀の角のようにただ独り歩め

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【詩とことば】

  • 情けも過ぐれば仇となる


  • 生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、

    右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。


    何から何まで 真っ暗闇よ

    すじの通らぬ ことばかり

    右を向いても 左を見ても

    ばかと阿呆の からみあい

    どこに男の 夢がある

    〔古い奴だとお思いでしょうが〕

    〔どこに新しいものがございましょう。〕


    真っ平ご免と 大手を振って

    歩きたいけど 歩けない

    嫌だ嫌です お天道様よ

    日陰育ちの 泣きどころ

    明るすぎます おいらには


    (藤田まさと「傷だらけの人生」※一部抜粋・改変)

  • 2.







    雨ニモマケズ

    風ニモマケズ

    雪ニモ夏ノ暑サニ

    モ  マケヌ

        丈夫ナカラダヲ

                モチ


    慾ハナク

    決シテ瞋ラズ

    イツモシヅカニ ワラッテ

                 ヰル

    一日ニ玄米四合ト

     味噌ト少シノ

         野菜ヲタベ


     アラユルコトヲ

     ジブンヲカンジョウニ

            入レズニ

         ヨク

    ソシテ   ミキキシ

     ワスレズ     ワカリ

    野原ノ松ノ林ノ蔭ノ


       小サナ萱ブキノ

           小屋ニヰテ

     東ニ病氣ノコドモ

           アレバ

     行ッテ看病シテ

            ヤリ


     西ニツカレタ

            母アレバ

     行ッテソノ

     稲ノ束ヲ

        負ヒ

     南ニ


        死ニサウナ人

               アレバ


     行ッテ

      コワガラナクテモ

         イヽ

    行ッテ   トイヒ


     北ニケンクワヤ

          ソショウガ

                アレバ


     ツマラナイカラ

          ヤメロトイヒ

     ヒドリノトキハ

     ナミダヲナガシ


     サムサノナツハ

        オロオロアルキ

     ミンナニ

        デクノボート

             ヨバレ


     ホメラレモセズ

     クニモサレズ

         サウイフ

             モノニ

        ワタシハ

           ナリタイ


      南無妙無邊行菩薩

      南無上行菩薩

     南無多寳如来

    南無妙法蓮華經

     南無釋迦牟尼佛

      南無浄行菩薩

      南無安立行菩薩


    (宮澤賢治、昭和六年九月廿日からのいわゆる「雨ニモマケズ手帖」より、11.3をもとに転記)

  • 1.





    僕の後ろに道はない

    僕の後ろに道は出来る

    ああ、自然よ

    父よ

    僕をひとり立ちにさせた広大な父よ

    僕から目を離さないで守る事をせよ

    常に父の気魄を僕に充たせよ

    この遠い道程のため

    この遠い道程のため


    (高村光太郎「道程」、1914,2)



[放映中・予定]映画とドラマ

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