【文藝・思想時報】2.PDF版 書評(紹介と考察・批評) 森一郎『世代問題の再燃』、明石書店、2017

【文藝・思想時報】2.書評(紹介と考察・批評) 森一郎『世代問題の再燃』、明石書店、2017 
   PDF版[暫定公開]

森一郎著『世代問題の再燃時報
紹介・考察・批評

葉良沐鳥

平成三十年一月二十二日

PdfExport

☆縦書きPDF版(書評本文、補記、附論)

PDFは暫定公開、直に公開停止します。

_________________________

2018-03-16

3月の写真

PCを使えないのでとりあえず記事としてアップ

» 続きを読む

日本語崩壊

最近BGT(バックグラウンドテレビ)をかけていると日本語の誤用もそうだが、激しい発音の変化がやたらと気になる。 すべてが「グーグル」流。 グーグル ・・・・ 英語では、 グーグル ● ・ 語頭に強勢がある。 元の日本語も、 本局 ほんきょく ●・・ ・ が、 ほんきょく ・・・ ・ に。 西日本の人なら普通に感じること多々あれども、東日本育ちの野蛮人には耳障りというより衝撃である。 数年前に野球選...

» 続きを読む

社会は明るいのか

近畿財務局職員が経験したことも、前川前次官講義内容監視の一件も、わたしは特別に驚かない。 狭い世界に生きていたため、社会は存外まともで、責任を持って働く職員ももっと多く、情報も風通しも組織では健在であるのか。 そう考えると幾分心も和らぐ。 センター試験に代わる英語等民間試験への対応もまともで。 政治や宗教、政権の協力勢力の一部者にすべての教育機関が乗っ取られてしまったわけではもちろんないのだと安堵...

» 続きを読む

2018-01-24

森一郎『世代問題の再燃』書評に寄せて——増山実『空の走者たち』(小説)内容との共通点

  余談 増山実『空の走者たち』における世代出産性の問い  増山実が二〇一四年末に刊行した小説『空の走者たち』は、いくつかの主題が本書や森一郎の3.11以降の思索と重なる。〈世代〉、〈継承〉、〈ジェネラティヴィティ〉など。この小説は円谷幸吉のあったかもしれない人生をストーリーの中核としている。円谷幸吉は東京オリンピック男子マラソンの銅メダル選手であり自衛隊員である。若い読者が知らなければ...

» 続きを読む

【文藝・思想時報】2.書評・考察・批評 森一郎『世代問題の再燃』、明石書店、2017

【文藝・思想時報】書評・考察・批評 森一郎『世代問題の再燃』、明石書店、2017 葉良沐鳥 平成三〇年一月一八日  「世代問題」は、かつて先進諸国と呼ばれた国々に共通する時代の病である。世代間格差であったり、国家内の世代別人口比率や出生率、労働者不足問題等々、さまざまに呼ばれるものの、これらの呼び名はしかしながら多岐多様というわけでもない。すべて一九世紀に始まり、二〇世紀第二次世界大戦後の復興と世...

» 続きを読む

書評の予定について

   あと4本書くべきものがあります。読者に紹介すべきもので、自らも書きたいもの。  メインの仕事を滞らせてしまい、4月からのこともあるので、まず2本書いたところで小休止します。  著者、読書人ほか、任務を果たせず恐縮ではあるものの。  期待せずに忘れてお待ちください。

» 続きを読む

日本語能力向上塾 日本語テスト 3.

日本語テスト 3.

問い
 下記文言中の一語を正しい日本語に置き換えなさい。
 (発言者は怒っており人目のないところで話したい、ないし脅したいと思っている状況)。

「手を貸しな!」(邦画作品、台詞)

» 続きを読む

日本語能力向上塾 日本語テスト 2.

日本語テスト 2.

問い
 下記文言中の「一通り」を同等あるいはより適切と思われる日本語(かな漢字四字)に置き換えなさい。

ヒント
 うわべだけの疎かな愛情ではないことを意味する。
 おざなりではないこと。
 
「○○の××に対する愛情は一通りのものではありませんよ!」(ANN系列ドラマ 番組台詞)

 

 

» 続きを読む

日本語能力向上塾 日本語テスト 1.

 

日本語テスト 1.

 

問い
 下記文言中の一語を正しい日本語に置き換えなさい。

 

「貴乃花自体が体質改善しなきゃいけない」(FNN系列 バラエティー番組 コメンテーター発言〔元政治家・芸人〕)

 

 

» 続きを読む

カイエ・デュ・シネマ誌 2018 今年度最も期待される映画作品 Cahiers du Cinéma

Cahiers du Cinéma: "Virgil Vernier"   トップにグザヴィエ・ドランの新作『ジョン・F・ドノヴァンの生と死』、時代ですか風潮ですか。 個人的にはヴィルジル・ヴェルニエの新作『Sophia Antipolis 』をまず観たい。   ※以下オリジナル・ページより Janvier 2018 – n°740 Lire la suit...

» 続きを読む

2018-01-23

Auf der Spur des umstrittenen Philosophen: Heideggers Hütte - Kultur - Stuttgarter Zeitung

Auf der Spur des umstrittenen Philosophen: Heideggers Hütte - Kultur - Stuttgarter Zeitung: ""   Auf der Spur des umstrittenen Philosophen Heideggers Hütte   Von Mirko Weber 09. November 2016 - 16:20 Uhr Ein Besuch in Todtnauberg im Schwarzwald, wo der Philosoph Martin Heidegger auf der Sturmhöhe lebte, sich als Geheimnis inszenierte, den Antisemitismus pflegte und zum Vorbild des Antimodernismus wurde. „Nach der Gesellschaft der Professoren habe ich kein Verlangen. Die Bauern sind viel angenehmer und sogar interessanter“: Martin Heidegger im Juni 1968 vor seiner Zufluchtsstätte. Foto: 70122477 ……. (Via .)  

» 続きを読む

2018-01-22

お知らせ 実存思想協会 春の研究会のお知らせ   2018年3月14日(水)14:00-18:00 東京大学・駒場

実存思想協会: "" 以下、オリジナル・ページより転載     実存思想協会 春の研究会のお知らせ    日時 2018年3月14日(水)14:00-18:00 場所 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム1(入場無料、事前申込不要) アクセス 京王井の頭線 駒場東大前下車 地図 A   個人研究発...

» 続きを読む

2018-01-18

【文藝・思想時報】1.書評 柄谷行人『坂口安吾論』、インスクリプト、2017 附「日本文学全集にとって〈原文〉とはなにか?」PDF版[暫定公開]

【文藝・思想時報】1.書評 柄谷行人『坂口安吾論』、インスクリプト、2017 附「日本文学全集にとって〈原文〉とはなにか?」    PDF版[暫定公開]         柄谷行人著『坂口安吾論』評 補記 評者にとっての精神分析と文学 葉良沐鳥 平成三十年一月十五日       ☆縦書きPDF版(書評本文、補記、附論) PDFは暫...

» 続きを読む

2018-01-16

日本文学全集にとって〈原文〉とはなにか? ——【文藝・思想時報1】柄谷行人著『坂口安吾論』に附する

                        「日本文学全集にとって〈原文〉とはなにか?」 葉良沐鳥 平成三〇年一〇日         図一 「浮世絵ってなんだ?」展図録、馬頭町...

» 続きを読む

柄谷行人著『坂口安吾論』評補記 評者にとっての精神分析と文学

      柄谷行人著『坂口安吾論』評 補記 評者にとっての精神分析と文学 葉良沐鳥 平成三十年一月十五日       先に〔書評本文〕評者はフロイトと精神分析を留保していると述べた。留保と言っても自ら再度その科学性や医学的効果を検証する予定というわけではない。精神分析を確立したフロイトはその後継の各流派との間の大きな隔たりの向こうにある...

» 続きを読む

【文藝・思想時報】書評 柄谷行人『坂口安吾論』、インスクリプト、2017 附「日本文学全集にとって〈原文〉とはなにか?」

S集にとって〈原文〉とはなにか?」(全三作)
【文藝・思想時報】書評 柄谷行人『坂口安吾論』、インスクリプト、二〇一七    付 「日本文学全集にとって〈原文〉とはなにか?」

葉良沐鳥

平成三〇年一月四日 


 本書は筑摩書房版『坂口安吾全集』を基盤に成る。著者が坂口安吾の専門家であった故関井光男と共に編纂にあたった経験を核に編まれている。全集は一九九八年に刊行が始まり二〇〇二年までつづけられ、二〇一二年の別巻により刊行終了となる。

 著者自身が自覚しながら強調しているように、収められた論考には初めての編年体(執筆年代順)による安吾全集の刊行に結実する安吾のあらゆる書きものと作家の人生と思考の歩みを並べて読みながら思索を重ねた体験が反映されている。

 第一部、第二部、第三部から成る本書は、既刊論文を集めたいわゆる論集本とは異なる統一性をもつ。著者が自己の論考全体を通しで再読しながら再考を深めた結果と思われる。

 第三部は共同で編輯した関井氏との對談及び新聞掲載随筆。

 読者は長めの論考が集められた文藝誌初出の論考や講演草稿をもととする第二部が本書の読みどころと思うだろう。評者自身もまず個人的に関心のある第二部「坂口安吾のアナキズム」の章より読み始めた。ところが第一部は単行本として刊行されること稀な全集の「月報」を下敷きに各節が書かれている。第一部を順序通りに読むことで坂口安吾なる文字通りの無頼派作家の歩みを辿りながらよく知られた各作品間の関係が頭に入る。安吾を読み終えたつもりである読者にも意外な事実の発見が多いと思われる。伝記上や文献学上の新事実という意味ではなくて、これまで年代順ではなくテーマごとに随筆ほかの作品を読んできた頭のなかの記憶が整理整頓されるという意味での発見である。

 このことは第二部最初の章となる「『日本文化私観』論」での、著者自身の執筆時期の錯誤のエピソードへとつながる。冒頭から書かれる。


 「一〇年ほど前だが、私は友人に指摘されるまで、坂口安吾の『日本文化私観』を戦後の作品だと錯覚していた」(一三七頁)


 評者は数十年前の卒業論文でブルーノ・タウトと並べて「私観」に言及した記憶があるので卒論と言えども学術論文であるのだからそうではないと信じたいものの、もしかしたら著者同様にやはり戦後に書かれたものだと誤解していたかもしれない。そうでなくともここ三十年の日本や世界を取り巻く政治状況や庶民感情の著しい変貌のなか、てっきり戦後の著述であるように記憶が改変されていたようである。

 それほどまでに「私観」でも安吾の思考は新しい。三ヶ月や半年で日本国民の上から下まで右から左まで一気に〈戦後〉の思考に転向するなかで、安吾は一貫していた。「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ」と戦前・戦中に言うのと戦後に言うのとでは大きな違いがある。東京、広島、長崎、大阪、横浜が一面の焼け野原となる前に言うからこそ腹が据わっている、覚悟と矜持がある。焼けた後では事実に圧倒された後で気を取り直すか、負け惜しみのやせ我慢でしかなくなってしまう。

 一九四二年に書かれた「私観」でも戦後の「堕落論」(四六年、『新潮』)でも安吾はぶれない。著者が引用する「予告殺人事件」は敗戦の三日前に『東京新聞』に掲載されたもの。安吾の人間観察の眼識が一貫した思想を生んだのではないかと思わせる。「私の隣組は爆弾焼夷弾雨霰とでも称すべき数回の洗礼を受けたのであるが、幼児をかかえた一人の若い奥さんが口をすべらして、敵機の来ない日は淋しいわ、と言ったという」。さすがに敗戦宣言間近となり周囲も「非国民」と罵ることはなかったのだろうか、いずれにせよそんなのへいちゃらまた一からやるだけという気概は実際に焼跡の女性たちが見せた通りである。

 本書と編年体全集との関係に話を戻す。第一部は月報という性質上、短めながらも月並みではない論考が編まれている。第二部は第一部の各論を展開するかたちで長めにより深く。ただし第二部の最初は先に言及した「『日本文化私観』論」であり、初出は一九七五年で八〇年代から二〇〇〇年代の他の論考より一段と遡る。そして同論考は著者による錯誤から安吾の先駆性と独自性を見直すものである。こうして著者自身が安吾を執筆時期の順序で、いわば新版全集編輯に先行して編年体順に読んできたなかでの約三十年の安吾を巡る思索が収められている。

 フロイトについての記述も散見される。著者が近年殊に関心を寄せていると思われる「死の欲動」、あるいは第二局所論(自我、エス、超自我)における超自我の役割といった後期フロイトである。評者はフロイト精神分析自体を留保したままなのでこの書評でもこの点について触れない(文末補記を参照)。

 本書はそうした概念装置抜きにしても、「文学のふるさと」を安吾文学の核心に見る著者一流の読解に基づく一貫性により書かれている。またそこから導かれる安吾における、あるいは文学における美と崇高の問いは白眉である。

 ◆

 本書を少し振り返ると、知識人の多数がマルクス主義者であった〈戦前〉に安吾は党やサークルと距離を保っていた。それは政治的無関心ではない。安吾は漸次的修正との独自のデモクラシー論を展開したことが指摘される。

 そして、なぜ仏教に入門しようと東洋哲学を専攻したのか。岡倉天心から和辻哲郎まで仏教芸術に「東洋」の本質を見ようとした者は、「無―原理」に東西新奇なものを吸収する「無の場」(西田)の国の色褪せた仏像や寺院建築の〈あせ〉のしか見出さなかった、もはやない―つなになかった幻の過去を求めるロマン派的身ぶりであり、進取や気骨の性根をもつ安吾は僧侶とならなかった、乱暴にまとめればこれが著者の見解である。

 ここで少し〈あせ〉の美と趣味判断、文化的慣習について書評を脱線して考えてみたい。

 仏教美術は時代による様式や宗派の思想により金箔のもの、木彫りであったり木目を活かすもの、インドのヒンズー教寺院に見られる南アジア独特の極彩色などと多様である。七世紀三国時代の朝鮮半島から渡来した銅造鍍金の仏像は、現代一般に日本の仏像としてイメージされるものと趣がかなり異なる。またさらに先述の〔仮想或いは密教飛び地の〕南伝系の色彩、真言宗系の寺院や不動明王像ほかに仄かに残る極彩色がある。華やかな色が残っていたならばと思うことも多々ある。同時に部分に残る往年の色彩を香らせる美のようなものがある。もしかしたら大拙や和辻が活躍した時代に創られた美的感覚なのかもしれない。江戸の俳諧ほかの侘び寂びがブルーノ・タウトが禅的世界のことばで語った竜安寺庭園のなかに移されながら、枯山水これとて中国の山水画や漢詩と無関係ではないものの、世界の〈和〉あるいは〈禅〉のステレオタイプを造り上げたのかもしれない。

 ただしここにこそカント趣味判断における〈美〉の問いの難所があり、カントは快いという感覚は真偽の判断とは別に万人におよそ妥當する普遍的な判断力としたものの、同時に文化圏ごとの習慣乃至慣れ親しみのようなものがあり、水墨画のように俳句のようにシンプルな世界観を昭和生まれのわたしは無条件に美しいと感じてしまう。わたしには否定しようもない威力として現れる。同時に不動明王像の色彩の名残りがはるか遠いインドとのつながりを感じさせながら、色褪せることのなかに悠久でありながら不変ではないいわば諸行無常の美をやはり感じてしまう。滅びること移りゆくことに自然の原理を見るからである。人工的なものに美を見るか自然に美を見るか、あるいは自然を克服する力に美を……これはまさに趣味の問題であり、それゆえ趣味判断を普遍的な問いに置くことの困難さがあるもののたしかに醜美への感受性と想像力あるいは残酷なものや悍ましきものを拒絶し嘔吐するような不快の共通性もまた大多数の人間が共有する普遍に近いものである。また美の例として複数のものが挙げられる際に美の単一性が脅かされることになるであろうけれども、この時の自らが生まれ育ち慣れ親しんだ文化の個別性が大きく影響する。習慣として機械的に美醜の判断が行われるきっかけともなる。


 このジレンマはカントの普遍性の枠組みで言ってみれば一般名詞としての〈ロマン主義〉という心的機制あるいは未来に對置される〈郷愁〉の視座から解決される。

 趣味と美、崇高に由来する美についてのカント美学を坂口安吾の語る〈文学のふるさと〉へと違和感なく論理を展開する凄味はやはり著者一流のものである。文学、言い易えればことばによる崇高と恐怖の表現は文化ごとに別様の形式をもち得る。そのような世界文学の震源であり根源が著者により敷衍された〈文学のふるさと〉すなわちハイムリッヒにしてウンハイムリッヒな故郷、崇高と恐怖で近づきがたく、同時にどうしても引き寄せられるように魂が立ち帰ろうとするひとしれず懐かしい共通の根であるかどうかは真剣に検討すべきたいせつな提起である。

 著者の独創性はさらに、和辻美学のあり方を西欧ロマン主義の美に並列させて捉える点にもある。

 ヨーロッパのロマン主義が美でしかなかった、つまり民族主義も反近代も文化的同一性に裏づけられた政治とは無縁の美的なるものであったと著者は喝破する。和辻の身ぶりはドイツやフランスの、あるいは英国のロマン主義芸術家たちが「荒れ果てた古城」に幻の「中世」を発見したと錯覚しながら、當の美的中世を創造していたのと同じ身ぶりである、と。つまりそこには活きた精神がない。ティーク、バイロン、M・シェリー、ネルヴァル……「古城」はロマン派詩人の憧憬の代名詞であり郷愁の換喩である。


 日頃〈近代〉批判を行うなかで無意識に又時には自覚的方法論としてロマン主義(独、仏、英)を一方に啓蒙思想(仏、英、米)を他方に基盤とする評者にはまこと耳に痛い話である。

 本書では岡倉から入った和辻東洋美学が「近代の超克」(京都学派・日本浪漫派)に至るヘーゲル歴史哲学・美学の換骨奪胎であったことが暗示される。

 言うまでもなく「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」をヘーゲル哲学により〈世界史の哲学〉として理論付けることはまったく哲学的ではない。さらに世界史の立場と言ったときにすでに西欧学問に借り物をしているわけである。戦後の「右翼」やナショナリストも実に欧米的であった。

 「日本的近代」を批判するには――〈復古〉ではなくというのは言わずもがな――、「日本独自」なるものが仮定される処で思考し、その思考は日本ないし東アジアの言語や論理に基づき實践する、あるいは基づいて實験するとの珍妙な考えを幾分反動的にしばらく前より夢想してもみた。

 そうであれば少なくとも〈明治以前〉、さらには〈平安以前〉へと遡行してみなければならない。明治~昭和に架けての長い明治時代は「平成」不在の「中今」になおもたゆたう。あまりにも多くの〈伝統の創出〉が為された。現実に當の時代に行けるわけもないので、知られる限りの當時の思考の手立て、ことばや道具、思考様式、制度、たとえば文学と政治、検閲、宗教等々のものに束縛されてものごとを考えるという意味である。たとえば近代を。あるいは文化を。徒な文化ナショナリズムの嘘に対抗するにも、格差広がる超近代性の政治経済がグローバルであっても普遍的ではないことを見破るためにも。その際に上記の如き遡行を行わなければ〈日本近代〉の批判は行き詰まるとも考えている。偽りの復古ナショナリズムに敗北するだろう。方法・思考・価値観は現代で、かたち乃至「偶像」だけが偽古代である思想に負けかねない。

 本書『坂口安吾論』の第一部は、全集の編年体月報にふさわしい内容であり、安吾の思想の歩みと、いまでは初出、オリジナル単行本や本全集(又大系系の伊藤整編輯本等)でしか読めなくなった四六、四七年までの原稿は元々の字体と仮名遣いのテクストからの引用に即しての批評となる(現代仮名遣いの通達後にこれからはより学習者が読みやすくなると新仮名遣いや新字体漢字で書く決意が語られる安吾「新カナヅカヒの問題」を踏まえても四六年、四七年以前の執筆物を新字体・新仮名遣いで刊行することに評者には違和感を覚える)。

 さらに第一部から第二部も貫いて柄谷行人氏ならではの思想が展開されている。

 安吾に関心が無くともここ三十年あまりの柄谷哲学や柄谷節の〈背景〉と歩みを知るにも絶好の書である。「〈戦前〉の思考」からカントまで。なぜ柳田国男なのか? なぜヘーゲルでなくカントなのか? 建築、風景……ほか著者の思考の歩みが随所に反映されている。点在する各著書を一本の糸で結ぶかのように。

 また昭和期日本の戦争、戦時体制、国民性、あるいは現在や未来の日本の歩む道、欺瞞の知識人(メディア)と孤高であることの矜持、こうしたことに関心をもつ読者にも推薦したい。

 ◆

 編年体による全集編輯と本書各論文での思考が切り離せないものであれば、全集が編年体となった理由と経緯が明かされる第三部も短くはあるもののやはり欠くことができない。

 あとがきに、全集のあらゆる収録を編年体(書かれた時期の順序)としたことを祝福した故津島佑子氏(月報)への謝意が語られている。さすがは津島氏と思う。全集は研究のための使用に耐え得るものでなければならないと評者は考える。作品がたくさん入っていて丈夫な造りで図書館にあるというだけでは全集である根拠は不十分である。

 これまでの日本文学全集、とりわけ近代文学でのあり方がむしろ〈異例〉のものだったのである。こうした物言いは誤解されかねないが、フランスやドイツ、少なくともヨーロッパならば全集はすべて年代順が常識である。一口に全集と言っても種々あるが、當代で最も信用あるとされる全集がジャンルやテーマで巻に分けられることは少ない。愛蔵版とは異なり学者や大学が研究のために購入するものだからである。

 日本文学での全集は入手可能なものが複数あることが多いにも拘わらず、編年体のものであったり、オリジナルの字体・仮名遣いのものが稀少である。学者や大学図書館用には権威ある高価なものがあればよいではないかと言われるかもしれないが、そうした全集は近代文学にはほぼ存在しない。個人で購入するには高価に過ぎて、しかしながら研究には向かない全集が複数あるだけというのが現状である。

 ほんとうは「世界〔ヨーロッパやアメリカのこと〕では常識」と言う人間は疑わしい。評者は嫌悪するかもしれない。然し、西欧型の冊子体出版となり百五十年、同じく西欧型大学を導入もしている。この点、全集編纂のあり方について、また出版社ごとの複数の文庫本の意義についても――中間には単行本、新編、復刻、大系ほか愛蔵本もあるなかで――それぞれの違いと違いから生まれる価値とを利用者(消費者)の視点からもご一考頂ければ、と。


 最後に装丁も見事で細部に気を配られた本づくり、いつものことながらインスクリプトの本づくりは美しい。


 いずれにしても坂口安吾の諸作品を改めて執筆順に読みたいと思わせる快心の著である。



» 続きを読む

2017-11-24

さらば、わたしの愛した大学よ!

退職についてのご報告   さらば、わたしの愛した大学よ! 悪い奴ほどよく喋る  〔ないことないこと〕   「虚言(そらこと)を以て人を謀りて、なむぢ火を温まむとて、あな……、われ書のならはしを求めて持ち来るに力なし。然らばただわが身を焼きて食らひ給ふべし」 身を挺して救った仏文科を無駄にせずに小さくならずに過去にすがらずに……ことを       &...

» 続きを読む

2017-11-16

三島論Kindle版 改訂第三版を登録しました

  葉良沐鳥「菊と刀 三島由紀夫の文学と政治における実存の美学」、書肆水月、2017  改訂第3版をAmazon Kindleストアに登録しました。  当面の校正を施し、「太陽と鉄」、立憲主義、日米安保等について加筆した実際上の第4版です。  予定通りであれば明日か明後日にでもAmazon.co.jpにて販売開始される予定です。  コレ  写真の下のリンクはアフィリエイト付。  しばらく...

» 続きを読む

2017-11-15

とても古い日記から

 せっかくなので幸福な想い出も書いておきましょう。  学生たちとのものは多すぎるのでやめにしておきます。とても古い日記の一部を抜き書きしておくことにしました。   2006.12.10  連合教授会の途中、仏文に呼び出される。他学部の方に伝言を頼むとは……とお詫びしてから急いで共同研に向かう。時間割作業を、急遽今日中に済ますことにしたから作業せよとの用件だった。  夜になり作業が終わり、書類を教務...

» 続きを読む

2017-11-10

葉良沐鳥『菊と刀――三島由紀夫の文学と政治における実存の美学』の改訂第三版

葉良沐鳥『菊と刀――三島由紀夫の文学と政治における実存の美学』の改訂第三版を刊行しました。明日にはKindleストアで販売されているはずです。ただし時間の関係で校正はいっさいありません。来週以降となる予定です。    明日、明後日、予定通りだと無料になる予定です。    ※Kindle出版の購入者の改訂版配信機能を利用しつつ、気が向いたら改訂してゆっくり書き続けています。

» 続きを読む

«映画・パラノイア・ラカン 2004.6.28

【銘】

  • 朝に死に夕に生まるゝならひ たゞ水の泡にぞ似たりける 不知生まれ死ぬる人いづかたより来りていづかたへか去る 又不知仮の宿り誰が為にか心を悩まし何によりてか目を喜ばしむる (鴨長明『方丈記』)

  • 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。(釈尊、中村元訳)


  • 夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客(李白「春夜宴桃李園序」)


  • 如行雲流水 初無定質 但常行於所當行 常止於不可不止(蘇軾「宋史, 蘇軾 子過」)


  • 人生無根蒂 飄如陌上塵 分散逐風轉 此已非常身   

    (陶淵明「雑詩)

     

【詩とことば】


  • まだあげ初そめし前髪の

    林檎のもとに見えしとき

    前にさしたる花櫛の

    花ある君と思ひけり


    やさしく白き手をのべて

    林檎をわれにあたへしは

    薄紅の秋の實に

    人こひ初めしはじめなり


    わがこゝろなきためいきの

    その髪の毛にかゝるとき

    たのしき戀の盃さかづきを

    君が 酌くみしかな


    林檎の樹の下に

    おのづからなる細道

    が蹈みそめしかたみぞと

    問ひたまふこそこひしけれ


    (島崎藤村『若菜集』より「初戀」)

  • まことの人は智もなく徳もなく功もなく名もなし 誰か知り誰か伝へん これ徳を隠し愚を守るにはあらず 本より賢愚・得失の境にをらざればなり(吉田兼好『徒然草』)

  • 名利に使はれて閑かなる暇なく一生を苦しむるこそ愚かなれ 宝多ければ身を守るにまどし 害をかひ累(わづら)ひを招く媒なり 身の後には金をして北斗をささふども人のためにぞわづらはるべき 愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみまたあぢきなし 大きなる車 肥たる馬 金玉の飾りも 心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき 金は山にすて玉は淵に投ぐべし 利にまどふはすぐれて愚かなる人なり(吉田兼好『徒然草』)

  • -

    諸法無我 sabbe dhammā anattā 

[放映中・予定]映画とドラマ

◎「教養の道」内検索

教養への一歩  300冊

今朝の(教養的な)本

○precaires

◐[Season Photos]

今日の一枚

  • Serge Gainsbourg - プレヴェールの歌/セルジュ・ゲンズブール

    プレヴェールの歌/セルジュ・ゲンズブール
    Serge Gainsbourg: La Chanson De Prevert

    ←RTSのサイトで聴く♪

    ねえあれが君の歌だと思い出して欲しいんだ。

    プレヴェールの詩にコズマが曲をつけたんだったっけ、

    君のお気に入りの歌だっただろう?


    枯葉が君を僕の思い出のなかに呼び覚ましてくれる度に、

    来る日もまた明くる日も枯れて死滅したはずのふたりの恋は、

    決して死滅で決着などつけられないと気づくんだ


    違う誰かとだったらもちろん諦めるさ。

    彼女たちの歌は単調だ、

    少しずつどうでもよい気分になる、

    それはどうにもできないことさ。

    〔…〕

    いつ始まるかなんて誰にも分からない

    無関心がいつ終わるかも

    秋が過ぎ冬が来る

    プレヴェールの歌、あの「枯葉」が僕の思い出からいつ消えるのかも

    誰にも分からないことだけれども、

    その時にはぼくたちの恋はやっと終わるんだね。

    (★★★★★)

_

  • _9_9_81_1_1
無料ブログはココログ

[configuration]

ad.6