さらば、わたしの愛した大学よ!
さらば、わたしの愛した大学よ!
悪い奴ほどよく喋る
〔ないことないこと〕
「虚言(そらこと)を以て人を謀りて、なむぢ火を温まむとて、あな……、われ書のならはしを求めて持ち来るに力なし。然らばただわが身を焼きて食らひ給ふべし」
身を挺して救った仏文科を無駄にせずに小さくならずに過去にすがらずに……ことを
この度二〇〇二年以来十五年間奉公してきた大学を辞めることになりました。
この記事は、誤解を免れるために書いておりますので、面識のない方がお読みになるときにも先入見をもたれないよう短い自己紹介を註1に記しておくことにします。
留学に送り出した学生の彼の地からの頼りや帰国の報告にも、どのようにいまの自分の状態を説明するか?その他在学生や卒業生のいつどこでなら会えるかとのコンタクトにも、どうやっていまの状況を説明できるか?考えながら結局そのままにお返事もせずにいました。語学教育や表象文化論でチームを組んでいた非常勤講師の先生方にも、背景の問題を説明できないことが支障となり、おかしなやりとりが多々ありました。
洗いざらいというわけにはいきませんけれども、誤解のないよう最低限のことを記しておきます。これがわたしなりの立つ鳥跡を濁さずです2 。
必要なことを、お世話になった方へのとりあえずのご報告を兼ねて説明します。
依願退職をしたのではありません。懲戒処分でもありません。 定年まで働く気構えでいたわたしが依願退職をするはずもなく、解雇は法の観点から嫌われたということでしょう。離職というあいまいなかたちとなりました。政党の離党のように復党したりするものではなく、文言は違っていても解雇です。 まず、わたしは忙しいから辞めたのではありません。反対に、わたし自身にはなんら関係のない都合により、秘め事を隠蔽するために五年以上閑職にやられていました。
すべては自分でもよく分からない奇妙なポストに起因します。
波のごとく押し寄せる諸問題は、わたしが辞めてポストもろとも消し去る以外に決着しないとようやく分かりました。
好転の見込みなし、教育による貢献もままならず、わたしが不規則なポストを占めていることが、学生の不利益となり、いくら正そうとしても無力を実感するばかり、自分自身も疲れ果ててしまっておりました。問題まみれの非正規のポスト、実態のない初習フランス語担当教員という人身御供を演じることと、相次ぐ弊害に疲弊していました。「なんとかしよう」という気力はもう起きず、「いつかは解決される」という楽観的な見通しも塞がれていました。
十五年間誰にも話せずにいたことを、こうして弁明できて、これだけでもだいぶすっきりして自分を取り戻せた気がします。
ひとりよがりはよくないので、説明をつづけます。ごく少数者が迷惑を被るか、大多数者が迷惑を被るかならば、わたしは前者の立場を取らなければなりません。
※※※
万事のことの起こりは、二〇〇二年四月に着任した折に、うっかりと不正規のポストに就いてしまったことにありました。
不正規のポストとは、〈教養教育センターに所属し、担当する授業はすべてフランス文学科科目、授業以外の仕事は両方のこと〉というものでした。「20コマルール」と呼ばれていました。
着任、就業となる五ヶ月前からの業務内容説明でこのことは理解していました。両部署の仕事をするという説明はありませんでしたけれども、わたしにとってはどうでもよいことです。初年度各種委員会と部署別委員会を合わせると七足す三以上もあるなどと愚痴めいたことを漏らしていましたけれども、これは若造が忙しいことを誇りに思った自慢話のようなものです。
問題は、いざ着任してみれば、センター同僚すら〈原はセンター所属、授業はフランス文学科、仕事は仏文のことも〉という条件を知らなかったことでした。これにはわたしもびっくり驚きました。
所属先の同僚が知らずに、実情を話すこともできずに、いったいどのように仕事をし、立ち回るのか……、悪意がなくとも初代センター長と仏文の担当者に想像力が欠けていたことは否めないでしょう。想像を絶する袋小路にすぐはまりました。まさにアポリアです。
辞令を受けて働き始めると、上記の特殊ポストの職務内容を知る人物は、フランス文学科教員、教養教育センターの二名、学内の教職員トップ一握りだけという状況でした。教養教育センターの同僚たちでさえ、わたしがフランス文学科の授業や一連の学生・学科向け業務を行うことを承知していなかったわけですから、着任からすぐにさまざまな対立と軋轢が生まれ、五月にはすでに働きづらい、居づらい状況となりました。フレッシャーズ・キャンプというフランス文学科の新入生の引率合宿にも、当然の業務として参加していましたけれども、事情を知らなければ「なにをやっているんだ!」、「なぜ仏文科の仕事で休講にするのか?」と周囲は当然思うわけです。
不正規ポストのからくりについては一切口外してはならない、学生や卒業生はもちろんのこと、学内教職員、教養教育センター同僚にも話してはならないと口止めされていたので、センター教授会成員の同僚にもいっさい言い訳や説明ができずにいたわけです。「不正規」ということばが悪ければ、いんちき、いずれにせよ実態とは異なるフランス語教員と名乗るようにと「指導」されていました。 口止めは学外だけではなく、学生にはもちろんのこと、学内教職員、教授会同僚(センター長と主任を除く)にも口外してはならない。学内の当該問題の最高責任となる役職者ですら知らない。誤解が生じるのはあたりまえのことで、当事者となり誤解のなかを「違うんだ」と説明することもできずに生きることはおぞましいことです。 二〇〇八年以降は、いつの間にか実態のないわたしが「学内で唯一のフランス語教員」ということになっていました。わたしとしては、事前説明と違うと思いながらも、所属はセンター、授業はフランス文学科科目、仕事は両方と、これも愚直にやっていたわけです。おたんちんというか薄野呂というか惚け者ならではの為せる業です。一般教育部解体、教養科目担当教員の各学部への分属と並立しての教養教育センター設立と変わり目の年、なにかと忙しいなかでの着任ではありましたけれども、前年の秋から就業にあたっての職務内容の事前説明を受けていたのに、しっかりと判断をできなかった若気の至りと思っています。教養教育センターに所属しながら、担当授業はすべてフランス文学科科目という内容でした。先日かつて同僚であった方と出会い「原さんが仏文にいた頃……」とのことばから、ああやはり学内同僚であっても伝わっていない、自分が口を開かないのだから伝わるわけがないとおぞましい日々を再認識しました。いまはそのような場を離れて、より賢明な判断ができるようになり、「なにをわたしは馬鹿正直に十五年間も貝になっていたのだ?」と自らの愚鈍さに呆れています。
※※※
二〇〇二年四月、わたしが辞令を受けた日付。旧教養科目担当教員は、各学部に分属3。することに決まっていたのに、土壇場となり教養教育センタを一部教員がつくり、教養科目担当教員が各学部への分属、教養教育センター所属と分裂した状態となっていました。
二〇〇二年四月の時点では、十年の間にこの異例の状態を解消することとなっていました十年後には教養教育センターがなくなり教養科目担当教員の全員が各学部に分属となり共通科目機構のみが存続して全学の教養科目運営が一元化されるか、それとも教養科目担当教員の全員が教養教育センター所属となるか。 後者の可能性は働き始めてから一年後のすぐに可能性が〈ない〉と感じました それでもこのままでよいわけではないとも思っていました。 土壇場のにわかづくりで教養教育センターを設立することには無理があったというのがわたしの感想です。分属する共通科目担当教員たちと反目するかたちとなり、学内でのコンセンサスや正当性も不十分なのですから、この状態は教職員にも学生にも不幸しかもたらさないと感じていました。
二〇〇二年四月、わたしの着任と同じ日付。教養教育センターは、それぞれ十数名の語学部門と諸領域部門の教員、総勢二十五名ばかりでスタートしました。 語学部門はたいへんなことになっていました。 八年間で三名の同僚が脳溢血などストレス性の疾患で他界し、貴重な仲間を失いました。その後も環境は悪化し、いまより一昨年前には英文科から移って来られた古参の同僚が早期退職しました。また一年前には同期の英語教員が早期退職しました。着任から三年以内に辞めた元同僚は十では足りないでしょう。
語学部門で無事に定年退職を迎えたのはフランス文学科から異動した初代教養教育センター長おひとりです。
わたしの場合、フランス文学科との間での板挟みとなり、徐々に解離する両部署で股を裂かれつつあるようでいながらも、同僚に対する口止めのため誰も事情を知らないという特殊な立場もありました4。誤解から出ることばを受けて応じる説明ももたされずにストレスを溜めていました。 二〇〇三年秋に自律神経失調となり、翌年秋には上咽頭がんというストレス性の奇病になりました。おかげさまで無事に回復。「もう大丈夫、心配ない」と二〇一〇年頃に主治医よりお墨付きを頂戴しました5。
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二〇〇七年にフランス文学科の授業を、つまり自分で教養科目として創設した表象文化論(チェーン・レクチャー)以外のすべての科目を抜き打ちで取り上げられてからというもの、この十年間、生きている、生きたという実感がまったくありません。なにをしてきたかを想い出そうとしても空白だけがただ残ります。
わたしの占めている不正規のポストを消し去り、葬り去りたかったのでしょう。時間割を操作してわたしの担当科目をなくした主任は、事前にもその後も、一度もわたしと相対峙し面前で授業剥奪を宣言することはありませんでした6。当初の密約をつくった三者の一方である学長は、二〇〇二年度を最後に退職、もういませんでした。なにも気兼ねがなくなったのでしょう7。
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そもそもの虚構のポストの表と裏、実態の口止めは、余計に問題を生じさせるようになりました。他方、わたし個人には、いくらなんでも強すぎる、痛いなぁという「肩たたき」が日々、あらゆる局面、一部の職員も巻き込んで始まりました。
すべては二〇〇二年四月に、フランス文学科内から三名の初習フランス語担当教員が教養教育センターに移るルールが破られ、目くらましのためにわたしが虚構のポストに就いてしまったことに起因します。寄る辺のない脆弱なポストでした。この肩たたきについては、このような場であるし、いまのところ説明するつもりはありません。新体制となった学長・事務局長体制のなかやっかいな学内政治に巻き込まれてしまった、初年度から学長室に関係していたというだけで警戒すべきだったのかもしれない、いずれにしても学びの場に暗雲が立ちこめて、心ある教員はみないなくなったとだけは開陳しておきます。〈法〉が壊れる音が聞こえるかのようでした。念のため、わたしはなにか授業をさせてはまずいような人間になった、そうされてもしかたない事件を起こしたりしたから、授業を剥奪されたのではないことを繰り返し述べておきます。
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個人研究室のNAS(データー保管サーヴァー)が破壊されたこともありました。NASには他大学との共同研究用のデーターと、教授会や各委員会の資料などをストックしていただけでした。すぐにバレるのにセロハンテープで取り繕われていて、これもまた薄気味悪い一件でした。ただそれでも、これは公にできるような比較的きれいな一面でしかありません。
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退職にいたるまでの一年間、専門家に代理人となってもらい職場との交渉をつづけました。
法律の専門家を立てるとは、ずいぶんと物騒な話です。当時、責任ある立場にあった者から「その話はいっさい受けつけない」、「もう話す気もないし、聞く耳ももたない」とされていたなか、話し合いの場を設けるにはそうでもするよりほかなかったのでした。このことも業界内では「ああ、あれか、あのパターンか」と先入見をもたれてしまいそうなことです。
それだけに強調しなければなりません。
わたしは、自分とは無関係の事情により退職となるまで追い詰められていました。
わたしがなにか問題を起こしたり、問題視される行為をとったのではない。数少ないわたしの誇れることに、学生からの苦情(クレーム)を一度も受けたことがないという点があります。
わたしに問題がない、それでも退職となったのですから、当然のことながら懲戒解雇ほかの処分ではありません。わざわざ強調するのは、「よくあるパターン」に分類されたくないからです。よくあるパターンとは、懲戒免職となった後に、処分の不当を訴えることです。大学教員の世界で法的係争となるとかなり多い例なのです。
専門家に調整に入って頂くことになったのは、十五年を経て、これはダメだ、なんの改善も見込まれない、法感覚もないと諦めたからです。会議を経ての決定、会議に諮ることもない、自分たちで決めた規則や規程、約束事すら守れない、そうした広い意味でのものです。法感覚や法令遵守の意識が稀薄にすぎました。尤もごく一部の人間が独断で行ってきたことであり、他の多くの教職員はこうした経緯があったことすら知るよしもなかったのですが。
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きっかけとなる出来事はふたつありました。遡れば問題含みのポストと、二〇〇七年の〔人身御供御役御免〕授業剥奪及びその処理にあるわけですけれども8。
ひとつは、これだけの足がかりはなければ、とてももうフランス語教員を名乗りながら働くことはできないというものでした。 教養教育センター教授会の同僚だけには初習フランス語運営の実態を知ってもらうとの、当時の教養教育センター長との約束が反故にされたこと。しかたないので教授会の席上、自分で口火を切り、「大学の初習フランス語の管轄部署、実際の運営についてお答え頂けますでしょうか?」と議長(教養教育センター長)に訊ねたところ、「そんなものは教養教育センターに決まっているじゃないですか!」と一蹴されてしまった。この経緯については、前後数年に亘る長い議論、メールや電話を含めたどうにもならないやりとりがありました9。
もうひとつは、また授業剥奪事件が生じたこと。今度は教養科目の某科目。やったのはその時間割係10。これには裏事情があり、彼が長年やっているフランス文学科と大学、教養教育センターを相手とする法的係争への協力を断り、同様に行政訴訟での証言も断ったことが遠因でした。ていねいに説明をした上で断ったつもりであったけれども、伝わらなかったようでしかたありませんね。
問題は教養教育センター長、諸領域部門主任の対応にありました。
「氏の意思は固く、ついては代替として以下の科目をやってもらう」と、審査も会議も経ない科目変更の押しつけがきた。しかもその科目はフランス文学科の二〇コマルールに入っているもので、仏文では誰もやりたがらないものだった。二〇〇七年にフランス文学科授業剥奪があったときに、伝達人として当時の教養教育センター長から、騒いで問題としないようにと説得がありました。原は語学教育から外して(仏文との関係を断つため)、諸領域部門に移す。「現代思想」という科目を新設して主担当科目とする。このような話し合いがあった。本意ではないものの、教養科目として現代思想があるのはよいかもしれないと思い応じました。ところが、当時の学長と事務局長による「現代思想の新設は必要ない」との一言で、この構想は破綻。そこで次年度に交替した教養教育センター長と原との話し合いで、原の担当科目は、教養原論×2(後に要請され一コマを哲学に変更)、表象文化論、国際学科フランス語と決まる。今回の授業剥奪の場合は予告がありました。几帳面な方です。その時点で、わたしは教養教育センター長と両部門主任に、科目がなくなるかもしれないので、当初の取り決め(上記の各科目)に戻すようにして欲しい、この取り決めが公式のものだからと伝えていました。ところが蓋を開けてみれば、まったく別の授業を押しつけようとしている。この経緯に呆れた、もうここの体質は変わらない、ダメだというのがふたつめのきっかけでした。
初習フランス語運営の実態とは下記の通りです。
●初習フランス語のカリキュラム権、人事権ほか権限のいっさいはフランス文学科にあり、教養教育センターにはない。
初習フランス語の実際の運営もフランス文学科が行っており、教養教育センターでは行っていない。このことはフランス文学科と教養教育センター長、語学部門主任との間の委託関係により隠密に行われている。学長も、全学語学教育の責任者も知らない。それどころか会議で席を隣にしている教養教育センターの同僚も、教学補佐も、誰も知らない。
●歴代教養教育センター長と語学部門主任だけが、フランス文学科を除けば実態を知っていました。知っているのはあたりまえでご本人たちがつくり秘匿してきたシステムだからです。学内で最も立場の弱いふたつの部署が手と手を取り合ったということでしょう。
反対にそれ以外の全教職員が知らない。恐るべき事態です。話してはならないとされていて、それを真に受けて話していなかったのですからそうなるでしょうけれども。 わたしが願ったのは、せめて教養教育センター教授会同僚(同じ部署の教員)にだけでも実情を打ち明けたい、認識を共有したい、そうでなければとてもつづけてゆけないということでした。
実情とは、学内唯一のフランス語担当科目専任教員であると名乗るようにとの無茶11、同時にフランス語の仕事に触れてはならないとする相矛盾する厳命12、この事実を言明してはならないとする禁止12でした。この状態が解かれることを当然望んでいましたけれども、それは無理だと十五年間の経緯で諦めていました。
本来ならば全学に、少なくとも分属する共通科目担当教員の全員にも、教務課など直接関係する部署の職員にも、なによりも学長と事務局長にも当然把握され、共有されていなければならない真実であり実態です。わたしはそこまで要求することは十五年間の孤独な闘いのなかで高望みに過ぎると感じるようになっていました。
なによりも日々顔を合わせてともに働く身近な同僚にだけは実態を知ってもらうということでした。「原さん、なんでフランス語だけ語学検定対策授業がないの?」、「フランス語のパンフレットが教養教育センターに置いていないの?」と繰り返し教養教育センターの同僚教員から訊ねられる、しかしその説明をしてはならないとされているジレンマ、袋小路の状態を抜け出さなければ、どうにもならないと感じていました。
代理人を立てたなかでなによりも気になっていたのは、情報開示を繰り返し拒否されてきた〈自分自身のポスト〉の内容です。
所属と担当科目、これだけです。 このように、いまになって思えばあり得ない、考えも及ばない、ある意味で馬鹿げた事柄であるので、なおさらのこと説明をお読みなっても腑に落ちないことだらけだと想像します。
※※※
よほどのことでなければ「天職」と信じた教育者の職を辞めるわけがありません。このことは数万人のかつての教え子のなかには理解してくれる者もあると信じています。
幼稚で無知な嫌がらせを哀れみていられるには、限界がありました。
またさして人生に執着しなければ、現在のわたしの心境は「これでやっと自由の身になれた」とホッとしているようなところもあります。ごく親しい方にもほんとうの事情を話すことができない後ろめたさや苦悩から解放されたと、意地もありますけれども、晴れやかでないこともないです。
ついでに大学に向けられかねない誤解も解いておきましょう。
「唯一のフランス語教員であると名乗れ」、「フランス語の仕事はしてはならない」、「これらのことを口外してはならない」としてきたのは、教養教育センター長と語学主任、フランス文学科、かつての学長・事務局長といったごく一部の人間であり、ほとんどの教職員はそのようなことを迫ったりはしないし、そのようなことが行われていることすら知らなかったし、いまでも知らないことでしょう。
ハンマーで肩たたきでもしてやりなとでも言われた職員などについても、なにも事情を知らずに唯唯諾諾と言いつけに従っただけでしょう。二〇〇七年度体制以降となれば、学長室や事務局長でさえこのことを知っていたのかどうかもわたしは知りません。
ともあれ、職場、戸塚、あるいは白金本館、ヘボン館に限定された〈方向定位〉に限定された、そちらへ行ってはならない!と空間や意識のなか近づくと電流が流れるような奇妙なものでした。
ということですので、職場を離れることで健康だけではなく、やっと冷静な判断ができるようになり、自分自身を取り戻しました。
ご心配に及びません。心配してくれた学生や卒業生、ありがとう!いまはエネルギーに充ちています。
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ここ二年間、卒業生を中心に、大学を批判することになるかもしれないがよいだろうかと確認をとってきました。さほど大規模なものではありません。卒業者は、母校を愛する声が多かったです。なぜわたしが批判をするのか。まだしていませんけれども、「その後が酷かった……の事情」として批判する心もちでいたことは確かです。そしてその理由は、ただひとえに自分もかつて愛した大学がかつての輝きを取り戻すことをいまでもなお願っているからにほかなりません。数十年かかるかもしれません。長い道となるでしょう。それでも魅力的な学びの場を取り戻して欲しいと思っています。
続々と辞めていった教員たちのなかで、「原さんは残ってよ」と言われたことがあります。そのことばはいまでも胸に刺さっています。どうやらわたしは貧乏くじを引いただけではなく、結局学生や卒業生のためになにひとつ改善できなかったようです。
わたしから申し上げられることはいまのところこの程度です。
フランス文学科の授業を剥奪されたときに、ある教員よりお便りを頂きました。このような問題はあなたが来る三十年も前よりつづいていて云々との内容でした。それである本のことを思い出しました。
この大学の歴史に関心のある方——在学生や卒業生、あるいは新しい教員でしょうね——は、『十年の歩み ——一般教育部創立十周年記念誌』、『それからの十年 —— 一般教育部創立二十周年記念誌』という学生ならキャンパスのどこかで手軽に閲覧できる充実した資料があります。ただしこれらを正しく読むには曲芸のようなリテラシーが必要となります。
一見すると各学部の専門教育教員と教養科目担当教員との対立のように読めてしまいます。ところが『それからの十年』では、旧一般教育部内での、後に分属や専門科目担当となる教員と教養教育センター所属となる教員との軋轢の歴史が反映されています。教養教育センター所属となる教員の系譜から書かれたものだからです。かつて一般教育部に所属した教員たちがその後学内でどのような道筋を辿ったか、そうした知識なしには読めるものではありません。
※※※
2002.4 着任。文学部で採用(表象メディア論担当の審査)され、教養教育センターへ。
初代教養教育センター長、フランス文学科より異動。 2003.10 ストレスにより自律神経失調。 2004.10 上位咽頭がん(ストレス性の奇病)。入院、治療、退院。
2007.3 初代教養教育センター長定年退職。
2007.5-10 フランス文学科主任により授業を全剥奪。
同、初習フランス語の剥奪。
2007.10 この問題を疑問視した役職者、学長により解任される。
教養教育センター長・主任により「現代思想」なる科目を新設して、同科目を担当する ことで収めるよう提案。承諾。
2007.11 学長により「現代思想」の新設は認められない、「必要がないから」となる。
学内唯一の「フランス語担当教員」とされる。
2008年度 特別研究制度を使い渡仏。授業なし。
2008.4〜 初習フランス語関係の連絡がいっさい来なくなる。協定留学校の変更と選別、決定、 等々。
2010年度 教養教育センター長との取り決めにより、担当授業を国際学科フランス語、教養原論 ×2、表象文化論とすることで担当授業問題が決着。
2012年度〜2014年度 国際学科フランス語クラスの増加を要請。却下。
2014.10 同僚より大学・行政相手の訴訟で証言を要請させる。断る13。
2015.2〜2015.9 証言を断った相手が時間割係を務める科目を剥奪される。
2015.10 教養教育センター諸領域部門主任(上の人物に告発されている教員)が、授業剥 奪を追認。フランス文学科に義務のある教養科目を押しつけられる。
めったなことでは怒りません。中学校を卒業してからはキレるようなことも少なくなりました。怒るときには毅然として怒ります。二面性、卑怯・怯懦、妬み・嫉み、不正義(汚いやり口)、コン、これらがわたしを怒らせる三つのポイントであるようです。 二面性はいうまでもなく表と裏があること。面前で呪いのことばを吐きながら、ほかの者たちの前では聖人君子であるかのような態度でいること。反対に本人には黙しておきながら、影となり悪口雑言を尽くすこと。いずれにしても嘘をつくことです。怯懦や卑怯は義侠にもとるということでしょうか、どうしてこのような性格が身についたのかは分かりません。同じく親や兄妹を裏切る、忘恩、恩を仇で返す、ちくる、こうしたことは自らの生き方として好みません。
妬みや嫉み、これはどうしたことか、大学を卒業して社会に出るようになってから、いわゆる人格障害の傾向のあるひとびとに、一方的にライバルと認定され、競争心よりも嫉みによりつけ回されて来たなかつくづく嫌になりました。なにを根拠に俺はお前より上のはずなのにと思いこまれるのかわかりませんが、いやたいてい分かっていてそれは外形でしか相手を判断しない、相手という物差しを立てないと自分というものを判断できない性質に由来するものなのでしょう。〔女優の高畑淳子さんのようにですね、わたしは社会の物差しとは違うあり方で進路を選んだとでも弁明すればよいのでしょうが、わざわざそのように言い訳するのはどこか格好悪いとの生き方への信念ゆえかどうもそれも〕。
不正義は、主に「汚いやり口」に対する平凡以上の反応ですね。これまで書いたことがらと繋がっているようです。正義を公共性(議論や抗争におけるオープネスの担保)から考える、壮年期にハーバーマスやロールズの仕事を知ったときには感動したものですけれども、これは主に田舎の小学校から中学校までの生活で学級内でのいざこざの日々から身についた姿勢のようです。「イジメるならほかの生徒たちにも分かるように堂々とやれ、さもなくばお前のイジメは正当化されない」。正義漢のようなものに憧れたのでしょうか。中学を卒業してから、ある級友のお母さんからお礼を言われた、たまたまイジメらしきことをしている、いまとは違い陰湿ではないけれども、蹴ったりしている、それを止めたことを感謝されてのこと。
いまの時代、正義心などなんの美徳にもならずに阿保だとけなされるだけでしょう。わたし自身、正義心だけではなく、とりわけ親切心には用心しなければならないと思うようになりました。二十代、大学院生の頃からでしょうか。こちらがつい親切にしてしまうと、これが下手で、同情されたように感じて怨みにもたれる、いつか仕返ししてやるとひどい目に遭うこともあった。Blogの銘・ことばのリストに「情けも過ぎれば仇となる」とのことばがいまでもそのままあると思います。これは自分自身に対する戒めなのですね。わたしはどこか情に流されやすい。両方の親より譲り受けた生来のものです。そこでつい、周囲の罰するべしとの声に反対してしまう。そうして一員として受け容れてしまう。今回の件でもこのことが大いなる失敗となりました。
わたしの考えるコンについて語弊なく説明するには長くなりすぎるので止めにしておきます。
また別の話で、だいぶ昔のこと、「好い意味でも悪い意味でも大人になりなさい!」と泣いてまで叱ってくれたひとがいました。それから十年近く、「大人」をふるまってきました。ある時に、あの方のいう悪い意味での大人とは「自己保身」のことでしかないのだと明らめてしまったことがあります。自己保身は、大人になれば自分だけではなくて、まず家族、あるいは教師であれば学生など、他の者を護るための責任ある行為でもある。それでも自己保身だけでは問題が解消されない場合もあるとこれもまた明らめるしかありませんでした。
最後に、わたしは必要であり、求められれば適切な役職につくことをなんら拒む者はありませんけれども、権力欲や権威に対する憧れというものが稀薄という欠点があります。もうひとつの欠点として、幾度かの人生における決定的な局面で、誤った判断を重ねてきました。誤解による不正義、悪口による、あるいは外形による先入見、あるいは怯懦よりもたらされたきたないやり口(違法であったり虚言であったり)であっても、怒りは自らの健康によくない、面倒だと、当事者以外の周囲への誤解を解く努力もせずに放り出してしまった、真実を告げて説明することを怠った、隠蔽されたままにしてしまったということがありました。本気で出家でもしない限り、社会で生きるのだからわたしは誤解を解く努力をすべきでした。たいせつな友人や親戚を失う結果となりました。 ↩
- 「ああ、あれか」と大学業界にまつわる辞め方の数パターンのどれかに分類されてしまうかもしれません。類型にはめられないために書いていることをお気に止めて下さい。早合点なされずにお読み下さい。 ↩︎
- 語学や教養科目担当教員が、教養部解体により所属先を失い、法学部、経済学部、理工学部……と分散してまんべんなく所属しながら、教養科目の教育と運営を行う体制。 ↩︎
- 正直一番「頭に来る」瞬間は、事情をすべて知り、その事情をつくった張本人である語学部門のごく一部の同僚が、そんな事情を知らないふりをして会議の席上あれこれくだらない文句をつけてくることでした。その後も辞めるにいたるまで。わたしには最後の切り札としてセンター長となり、自分の問題のみならず万事の問題を解決するとの手段が残っていました。ところがこの人物が15年も主任職を独占していたため、センター長選には立候補できない仕組みとなっていました。着任から数年でそうした空気はありましたけれども。 ↩︎
- 年に二回、やがて一回となった予後観察〔再発の怖れがないかのチェック〕の義務を解かれたのでした。 ↩︎
- 十月になり問題が発覚したときに、この主任は「すべては教学補佐がやったこと」とわたしに告げ、責任をすべて彼女に押しつけてしまった。前年まで学生であったまだ若い女性にです。いくら馬鹿なわたしでも、どんな理由で彼女がわたしの授業を奪おうというのか、なんのためにやるのか、そんなことできるわけないと呆れました。このことはわたしの心を痛めつづけていました。 ↩︎
- この時、秘密裡にフランス文学科主任と、教養教育センター設立者との間で交渉が行われていたことを後から知りました。原のフランス文学科科目担当は取り上げる、そちらとしては原にどのような科目を担当させるつもりか……。ここに大きな問題がありました。↩︎
- 二〇〇七年授業剥奪、二〇〇八年からはじまる細々の嫌がらせ。このタイムラグには理由があります。原を辞め させると初代センター長の定年退職でフランス語担当教員が学内にゼロという事態が生じる。そうな れば学内他学部の教員から、フランス文学科だけがなぜ語学担当教員の教養教育センター異動がない のだ?との二〇〇一年の議論が再燃する怖れがある。これはどうしても避けたかったのでしょう。 仏文と親しい新センター長がまず初代センター長の後任補充人事フランス語を潰す。その後でポス トもろとも原ごと消去してしまえば二〇〇一年の密約の証拠がなくなるとでも思ったのでしょうか。 このあたりはよく分かりません。 ↩︎
- より直接のきっかけはといえば、しかるべき人物が受理した申請書類を教授会に諮ることなく、握り潰してしまったこと。これはもうダメだと感じた瞬間。自ら取り下げるよう迫られ、拒否すると握り潰してしまった。 ↩︎
- 時間割係ないし時間割作成者というのは、開講授業の曜日と時限を決めて、担当教員の希望に即して 配置する役割。作成した時間割を教務課に提出する。担当教員から授業を奪ったり、新たな教員を組 み込むなどの人事権は当然ない。わたしが担当したことがあるのは二〇〇二年-二〇〇六年度のフラ ンス文学科横浜キャンパスのもの、表象文化論(現代世界と人間五、六)、国際学科フランス語。 ↩︎
- 教養教育センター長、十五年以上同一の語学部門主任、この両役職者を通して間接的に伝えられるようになったフランス文学科の意向。 ↩︎
- 上に同様。 ↩︎
- フランス文学科に属したことあるわたししか内部のことを知らないと頼まれたものの、わたしはフランス文学科に所属したことはないため。〈発言権のない陪席者〉として学科会議に出席していたものの、「教養教育センター教授会での内容を知りたくてあんたを出席させているのになんでそんなたいせつなことを言わないんだ!」との某仏文教員の一言により、スパイのような真似はできないと二〇〇六年六月以降は学科会議にも出ていない。「来月は人事の案件があるので来ないでよい」と言われたタイミングでもあったため。 ↩